「死んでもらわなくちゃ困る」
これは葬儀屋のセリフではない。
殆どの生体問屋や生産者、果ては小売業者の中では普通に聞かれるありふれた言葉である。
「生きものは死ぬから(次の個体が)売れる」
「死なない生き物は売れない」
苦境に陥れば陥るほど、人は過去の成功法則にしがみつこうとするものだが、何を売ってもほどほど上手くいった高度成長期やバブルの焼き直しを盲目的に行おうとするように、遮二無二お題目を唱える業者は掃いて捨てるほどに多い。
以前は私も若かったので、そういう意見を突きつけられると躍起になって論破しようとしたものだが、ある頃から何も言いたくなくなった。
世の中には手段が目的、否、信心になってしまっている人が居て、どうあっても目的が達成できれば良いのではなく、自らが信じたやり方で目的を達成できなければ到達点が無価値になってしまう方々が恐ろしいほど多いのだと理解できたのも、理由の一つである。
とある宗教の信者が輸血を拒否するが如き次元の問題に理論も理屈も無く、そこには意見の刷り合わせも無ければ自己の再発見も存在しない、つまりは教祖や聖典の教義を受け入れるのか容れないのか?常に問題がその一点に集約してしまうような愚かな議論に時間を割きたく無いという感情が一番合っているのかもしれない。
A事象にB事象が追加された場合に起こりうる結果についてなければ幾らでも推論や憶測の話ができるのだが、その人個人の魂の救済レベルの話には私如きではとてもお付き合いしきれるものではない。
それはもう「私にオムツを当ててください」「食後に背中をさすってゲップをさせて下さい」レベルの話であり、それは少なくとも友人や知人が行うべき作業ではない、という感情に襲われてしまうのだ。
金魚は死にやすいから売れるものなのか、死にやすいから売れないものなのか?
実際「死んでもらわなくちゃ困る」型の方とお話をしていると、理屈としては「死ぬから売れない」のだということが本当は理解できているのだと感じることがしばしばある。しかし、本能の部分で教祖や聖典にすがりたくなるのか、殆どの場合最後はヒステリーの発作を起こされてしまう。
この論争、2011年の震災以降にあっては特に、答えは既に厳然として示されているように感じるのだが、どうしてか時間を巻き戻そうとする方がとても多いように思う。
死ぬ金魚には1円だっていただける価値も無い。
赤伝は切られた方が悪い。
死にやすい金魚を出荷するから売れなくなった。
これらを内部で言ってはならない風潮はどうかしていると思うのだが、そういう私の方がどうかしていると業界内では思われる。前述の理由により、どう思われても私は一向に構わないし、他人の信仰を邪魔する積もりも無い。
話が少し飛ぶのだが、水産科学のジャンルで少し興味深い話を聞いた。
親魚が失われた場合、次世代が受ける負荷、という計算で、無論これは実験的な平均値なので環境によって著しいばらつきはあるものと思われるが、その負荷は一世代で失われた親魚の数の8乗が概ねの数になるという。
金魚の親魚が1ペア(2尾)産卵せず斃死した場合、2の8乗、つまり次世代にあっては256尾の健全で産卵可能な金魚が失われてしまう、という意味になる。
この計算だと10尾産卵前に死ねば1億尾の金魚が消失してしまう。(単純計算なので雌雄比率や産卵回数は前提から除外)
これは机上の空論ではなく、比較的腑に落ちる数字である。
私は5乗程度のインパクトは想定していたが、平均値として8乗と聞いた時、嫌な予感が的中したような落胆と絶望を感じたことを忘れない。
勿論コアカ等と異なり、選別淘汰をしなければならない品種ではこの数字はかなり小さくなる筈なのだが、この消失したグループの中にどれほどの逸魚が、稀魚が、貴重な因子を持った突然変異が起こった筈か考えただけでも、8乗という数字のおぞましさは伝わってくる。
逆に、1ペア瀕死のものを救命し、無事産卵に至らしめた場合には、256の未知の選択肢が発生するという意味でもある。
金魚の品種維持・改良は確率と履行回数の問題であることは皆様ご承知の通りだろう。
この一つだけをとっても、金魚が死ぬ、ということの損失はご理解戴けるのではないだろうか?
信心の賛否ではなく、金魚が「死ぬから」論争に終止符を打てるならば、この業界の未来も明るくなるだろうと思うのだが、どうにも宗教論争に帰結するのが非常に腹立たしく悩ましい。
信仰も文化と言えばそこまでなのだが・・・。
追記:ここで言う「死ぬ」「死にやすい」の定義は流通過程で既にメタクソなコンディションになってしまっていて、お客様がどう努力をしても救命不能な状態のものを指します。また、副次的には病気に対して異様に抵抗力が少なく(というよりも無く)潜在的にありとあらゆる疾病を発症する前段階のものも指します。

これは葬儀屋のセリフではない。
殆どの生体問屋や生産者、果ては小売業者の中では普通に聞かれるありふれた言葉である。
「生きものは死ぬから(次の個体が)売れる」
「死なない生き物は売れない」
苦境に陥れば陥るほど、人は過去の成功法則にしがみつこうとするものだが、何を売ってもほどほど上手くいった高度成長期やバブルの焼き直しを盲目的に行おうとするように、遮二無二お題目を唱える業者は掃いて捨てるほどに多い。
以前は私も若かったので、そういう意見を突きつけられると躍起になって論破しようとしたものだが、ある頃から何も言いたくなくなった。
世の中には手段が目的、否、信心になってしまっている人が居て、どうあっても目的が達成できれば良いのではなく、自らが信じたやり方で目的を達成できなければ到達点が無価値になってしまう方々が恐ろしいほど多いのだと理解できたのも、理由の一つである。
とある宗教の信者が輸血を拒否するが如き次元の問題に理論も理屈も無く、そこには意見の刷り合わせも無ければ自己の再発見も存在しない、つまりは教祖や聖典の教義を受け入れるのか容れないのか?常に問題がその一点に集約してしまうような愚かな議論に時間を割きたく無いという感情が一番合っているのかもしれない。
A事象にB事象が追加された場合に起こりうる結果についてなければ幾らでも推論や憶測の話ができるのだが、その人個人の魂の救済レベルの話には私如きではとてもお付き合いしきれるものではない。
それはもう「私にオムツを当ててください」「食後に背中をさすってゲップをさせて下さい」レベルの話であり、それは少なくとも友人や知人が行うべき作業ではない、という感情に襲われてしまうのだ。
金魚は死にやすいから売れるものなのか、死にやすいから売れないものなのか?
実際「死んでもらわなくちゃ困る」型の方とお話をしていると、理屈としては「死ぬから売れない」のだということが本当は理解できているのだと感じることがしばしばある。しかし、本能の部分で教祖や聖典にすがりたくなるのか、殆どの場合最後はヒステリーの発作を起こされてしまう。
この論争、2011年の震災以降にあっては特に、答えは既に厳然として示されているように感じるのだが、どうしてか時間を巻き戻そうとする方がとても多いように思う。
死ぬ金魚には1円だっていただける価値も無い。
赤伝は切られた方が悪い。
死にやすい金魚を出荷するから売れなくなった。
これらを内部で言ってはならない風潮はどうかしていると思うのだが、そういう私の方がどうかしていると業界内では思われる。前述の理由により、どう思われても私は一向に構わないし、他人の信仰を邪魔する積もりも無い。
話が少し飛ぶのだが、水産科学のジャンルで少し興味深い話を聞いた。
親魚が失われた場合、次世代が受ける負荷、という計算で、無論これは実験的な平均値なので環境によって著しいばらつきはあるものと思われるが、その負荷は一世代で失われた親魚の数の8乗が概ねの数になるという。
金魚の親魚が1ペア(2尾)産卵せず斃死した場合、2の8乗、つまり次世代にあっては256尾の健全で産卵可能な金魚が失われてしまう、という意味になる。
この計算だと10尾産卵前に死ねば1億尾の金魚が消失してしまう。(単純計算なので雌雄比率や産卵回数は前提から除外)
これは机上の空論ではなく、比較的腑に落ちる数字である。
私は5乗程度のインパクトは想定していたが、平均値として8乗と聞いた時、嫌な予感が的中したような落胆と絶望を感じたことを忘れない。
勿論コアカ等と異なり、選別淘汰をしなければならない品種ではこの数字はかなり小さくなる筈なのだが、この消失したグループの中にどれほどの逸魚が、稀魚が、貴重な因子を持った突然変異が起こった筈か考えただけでも、8乗という数字のおぞましさは伝わってくる。
逆に、1ペア瀕死のものを救命し、無事産卵に至らしめた場合には、256の未知の選択肢が発生するという意味でもある。
金魚の品種維持・改良は確率と履行回数の問題であることは皆様ご承知の通りだろう。
この一つだけをとっても、金魚が死ぬ、ということの損失はご理解戴けるのではないだろうか?
信心の賛否ではなく、金魚が「死ぬから」論争に終止符を打てるならば、この業界の未来も明るくなるだろうと思うのだが、どうにも宗教論争に帰結するのが非常に腹立たしく悩ましい。
信仰も文化と言えばそこまでなのだが・・・。
追記:ここで言う「死ぬ」「死にやすい」の定義は流通過程で既にメタクソなコンディションになってしまっていて、お客様がどう努力をしても救命不能な状態のものを指します。また、副次的には病気に対して異様に抵抗力が少なく(というよりも無く)潜在的にありとあらゆる疾病を発症する前段階のものも指します。
