蝦夷地・・・1 蝦夷地・・・2 蝦夷地・・・3
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中央アジアのキルギスに不思議な伝承がある。
「エニセイ川のほとりに住んでいたある部族が居た。
肉の好きなものは西へ移動してキルギス人になり、
魚の好きな者は東へ移動して日本人になった」

エニセイ川が基点になる点に於いて、一見さもありなんと思わされる伝承であるのだが、
一つこの伝承には疑問点がある。
西へ移動した部族がキルギス人になった。
これはキルギスの伝承であるので、
エニセイ川のほとりから移動した建国神話としては間違いが無いものである。
しかし「日本人になった」仮にこれが事実としても、
誰がキルギス人にそれをフィードバックしたのだろうか?
まさか「日本に行きます」と仲間に伝えて旅立った訳などない。
はるか昔、騎馬で最短・最速で移動したとしても、日本ははるかに遠く、
更に「日本」という国のある概念すらなかったのではなかろうか?
しかしながら、事実として伝承はある。
どう考えてもこれは、この伝承の精度が正しければ、国際郵便も電話も無い時代のこと、
一度日本へ渡った者が存命中、もしくはその記憶を生々しく受け継いだ子孫が
何らかの証拠を携え「戻ってきて」伝えた話以外に他ならないのだ。
キルギスの話ばかりではなく、中央アジアからシベリア、極東にかけて、
日本にまつわるこの手の話は実は沢山残されている。
「砂金堀りの日本人」「ヨシツネ・ドーム」はその一例であり、
平家物語じみた昔話すらシベリアには伝わっている。
HLAの形質がロシアに由来する日本人が多いことは既に「蝦夷地・・・2」で述べさせて戴いた。
しかし、同時に現代人の私達が想像するより多くの日本人が、
かなり自由にシベリア~中央アジアを往来し、
場合によっては定着すらしていた可能性が多分にあるように私には思われる。

問題は、どういった日本人がやってきていたのか?ということである。
人間が遠隔地を移動する場合、
1)移民目的(計画的な移住・突発的な移住)
2)商用目的(いわゆる国家規模の「交易」から「出稼ぎ」感覚のものまで
概ねこの2点に目的は絞られる。
日本の歴史の中に、極東・シベリア・中央アジアと国家規模で計画的な移住や交易を行った記録は私の知る限りでは無い。
と、なると、良くて部族の首長クラスの移住や交易、最悪の場合は「突発的な移住=中央政府からの逃亡」や「抜け荷(密輸)感覚の小遣い稼ぎ」に規模が限定されてくる。
日本で比較的記録に残っているものとしては、奥州藤原氏が「独特」の交易ルートを持っていた(朝鮮や極東エリア)程度である。(本編は極東エリアからの交易のみに限定するので、中国経由のものは除外します)

これは私の想像でしかないのですが、突発的な移住や小遣い稼ぎの交易が起こる場合、やってくる日本人は、「中央政府から逃亡してくる落ち武者」であったり、「一山当てたい山師めいた存在」のような、言い方は悪いのですが、現地の人間からすれば「些か迷惑者の集団」であったのではなかろうか?としばしば感じることがある。
特にキルギスの場合などは、「他所から来た自分達がこの地方に定着する根拠」として、先祖がエニセイ川付近にルーツを持つ同族なのだと強弁したツワモノが居たのかもしれない、という想像すらふくらんでしまうのだ。

ここまで書いたところで、そもそも蝦夷地とはどこからどこまでを指す言葉であったのか?という疑問が沸く。
実はこれは未だ定義が定まってはいない。
起点ははっきりわかっている。それは、当世の中央政府の権威が及ばなくなる境界線が蝦夷地の始まりであった。多くは「箱根の関」とされるが、それはかなり時代解釈を省略した形であって、実際の蝦夷地の起点はもっと西側であり、箱根付近で膠着した時代があり、更には利根川が一つの指標にされた時代もあった。中央政府が蝦夷を「討伐」していく過程で、起点は時代を追う毎に北方へと移動していったのだ。
しかしながら、蝦夷地の北限とは?更には西限とは?
これには明確な答えは未だ出されていない。
これこそいわゆる「持病の癪」のようなもので、現代人の感覚・見方と当時の感覚が激しくずれているように感じられてならない。
ぶっちゃけたところ、蝦夷地の北限・西限とは、蝦夷の部族が移動可能な全てのエリア(極東・シベリア・中央アジア)に及ぶ可能性を、様々な伝承/遺物/遺構が示唆しているように思われる。

蝦夷というときにとかく我々が思い出しがちなのは、
現在北海道以北に本拠地を持つ、アイヌの諸派などである。
しかしながら忘れてはならないのは、
アイヌは蝦夷の部族の中の一部にすぎない、ということである。

蝦夷は武士の始まりともいわれ、日本の歴史は
ヤマト朝廷と蝦夷武士の主権のせめぎあいと調和によって構築されてきたものなのだ。
早い時期に朝廷に協力した蝦夷の中には、
史実に残るところの日本初のクーデターである平将門の乱を支援した坂東武者団が居た。
史実上初の無理心中をさせられた天皇は、
平清盛の孫・安徳天皇であることは広く知られている。
源平合戦の主力部隊は蝦夷の武士団であり、
奥州藤原氏の討伐は蝦夷が蝦夷を攻めた戦いでもあった。

武者といえば華々しいものを想像される向きも多いが、
朝廷についた蝦夷が蝦夷を討伐した時、負けた蝦夷は「俘囚」と呼ばれる立場にされた。
彼らは鉄剣の鍛造技術に優れた騎馬民族であったことから日本各地に配流(俘囚郷)され、
技術者集団として重用されたのである。
その技術集団をまとめる役割として、
奥州安倍氏/清原氏/藤原氏は俘囚長として絶大な権力を掌握した。

即ち蝦夷とは、朝廷の内部に入り込んだ者、
俘囚として捕らえられ結果として配流先に定着した者、
今に知られる一部アイヌのように最後まで抵抗し北方へと逃れた者、
全てを指す言葉である。
決してなにか一部族を指す言葉でもなく、一つの地位や立場を示すものでもない。
東日本以北に居た、部族集団全てを指す、ただそれだけの言葉である。

朝廷の実権は時代と共に武士に移り、
乱暴な表現ではあるが「征夷大将軍(蝦夷討伐の大将軍)」の肩書きを持つ蝦夷が「幕府」を開き(徳川家が蝦夷の子孫であることは比較的有名である)、実際の政治を執り行う制度が1867年の大政奉還まで継続した。
騎馬・鉄剣(刀)・武士の文化は朝廷のものではなかったが、紛れも無く日本人(蝦夷)そのものの内側から発祥し、果てしない朝廷と武士の主権争いとの手段になり、最終的に徳川家が江戸幕府を開いた、その時点において、すべての日本人の文化となったとも言えるのである。

歴史の流れを見るときに起こった出来事だけを追えば、それはほぼ戦争だけの歴史となる。
特に蝦夷が蝦夷を「朝廷の命令で」討伐する時代の苦しみは、
言葉に尽くせるものではないと私は考える。
双方が双方の正義を信じて、果てしない同士討ちを繰り返してきた。
討つ側も討たれる側も、
自身の選択が将来にわたる主権を掌握し子孫を繁栄させる唯一の手段と信じて
殺し殺されるのだ。
それはまさしく現代の民族紛争に通じる怨讐の応報そのものである。
極東・シベリア・中央アジアへの突発的な移住がいつの時代に起こったものか、
それを知ることは困難なのだが、私は特にこの時代がそうであったのではないか、と推測する。
もはやこれまで、と覚悟を決めた時、どこにも居場所が無いと悟った時、
先祖が往来していた場所があれば、逃れたくなるのは世の常ではなかっただろうか?

時代の境目において、幾度も「武力統一による平和」という構想が起こり、
戦国時代を経て徳川氏の時代が始まったのだが、
武士の概念は戦いの時代に洗練され、
武士道という「戦争に於ける人道上の基本ルール」が構築され、
これは徳川氏の時代に精神論として高められた。

近年、この武士道の概念を自分達のものであったと
発祥を主張するグループが外国に複数居る。
韓国系の主張もあり、外国に集団で居住しているアイヌの一派の主張もある。
しかしながら、実際に血を流し、殺し殺され、
現在の日本国の礎を絶え間なく築き続けた我々の先祖たる蝦夷の部族全てに対して思いを馳せた時、甚だ遺憾であるように感じられる主張である。特に「蝦夷地・・・3」でリンクしたアイヌの一派の方々については、かつては私たち日本人の先祖たる蝦夷の同胞であっただけに残念にすら思う。
我々は発祥を競うのではなく、伝承を照合し、確かに先祖が同じ土地に住まう同胞であった確認を行える唯一の存在であるように私には思えてならないからである。
今後、その機会が熟すことを心から願わずにはいられない。


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