時代が変わると本来の意味が失われるばかりか、
違う意味が見出されてしまう出来事が数多く御座います。

笑い話なのですが、私は良く仕事をしたくなくなると
「持病の癪(しゃく)が・・・」と言いながらうずくまります。
そうすると家内がニヤニヤしながら「そいつはいけねえ、さすってあげやしょう」と。
この場面、時代劇などで多用されるいわば「テンプレ」的なやり取りなのです。

例)街道外れの片田舎で、農家の若い女性が「持病の癪が・・・」
するとすかさず若い浪人らしき男性が、「そいつはいけねぇ、さすってあげましょう」と。
そしてその後、女性はお礼に自宅に男性を招き、お礼に食事だけでも等
男性に漬物とお茶程度のものを供する、と。
時代劇はそこから色々始まるのですが・・・。

この「癪」という病気、私は大変恥ずかしながら、
単なる咳き込みや胃痙攣、軽い風邪のような感覚で言っていたのです。
しかし、あまりに「癪」を起こす私に耐えかねたのか、
家内がとうとうぶち切れて、「あんたそもそも癪って何か知ってるの?」と怒り出し、
「癪っていうのはねぇ・・・」と、驚愕の事実を語り始めたのです。

そもそも「癪」とは何だったのか?
中には私達が想像する「胃腸障害系」の疾病もあるにはあったそうなのですが、
それはごく僅か。
癪に苦しむのはフンドシを締めない「女性」が多かったこと。
そしてその正体とは?
「サナダムシ」「カイチュウ」「ギョウチュウ」などの、寄生虫が消化器系器官で活動し、
その影響によって腹部に尋常ならざる苦痛が起こる状態。
そして、フンドシをしていない場合、
しばしば下の穴から出てきてしまいそうになったり、勝手に落ちてしまうこともあったのだと。

江戸時代の「新撰病双紙」には広節裂頭条虫症に悩む男として、医師が虫を排出させる絵が描かれているが、この絵は衝撃である。
何故なら、この虫は、体長2メートルから9メートル、幅1.5~2センチに及ぶものであるからして、その描写も半端ではない。

という訳で、それ以降私は「癪」という名の仮病を使うことを止めたのです・・・。

一説には、江戸時代のこの病の罹患率は9割近くにのぼり、これが「食物」を介して広がることは江戸庶民は何となく経験でわかっていた、と・・・。
ここで冒頭のやり取り、「そいつはいけねぇ、さすってあげやしょう」と、介抱してくれた男性を、お礼に家に連れてゆき「何か召し上がっていってくださいまし」と、火を通していない「現に癪の患者を発生させた生の漬物」を食べさせる行為・・・。
癪の苦しみを知っている女性が・・・。
この行為こそ、「そいつはいけねぇ!!!」のではないかと思った次第で御座います。

何を申したいのとかいいますと、物事の見え方というのは、背後関係を知るまでは本当の姿は見えてこないのではないか?と。
癪に例えれば、ノコノコついていって漬物を食べてしまう浪人は、
自己管理が出来ていない上に日ごろ女性にあまり相手にされない、
ただのスケベ野郎であったのではなかろうか?と思ってしまうのです。

昔起こった出来事というものは、現代から見ると「癪」的なものが多く、
まるでとんちんかんな解釈をしてしまったり、
当時の感覚から激しくずれた感覚で受け止めてしまうものが多くあります。
日本国内のささいな「癪」程度の出来事でさえこの有様なのですから、
外国人が介在した出来事ともなると、双方に「言い分」が発生し、
その「言い分」を双方がどこまで遡ればよくなるのかすらわからなくなる、
もうしっちゃかめっちゃかな状態になってしまうのが「当たり前」なのではないか?と、
このごろ特に強く感じるのです。
(中韓の話題はもう支離滅裂で当たり前なので、今回は割愛します)

話が少しすっ飛びます。
金魚仙人、川原やどる氏はシベリア抑留の経験が御座います。
「金魚仙人の回顧録 千島からシベリアへ(守備兵~捕虜へ)」
という本を出版されており、そこには貴重な抑留時代の記録が記されています。
川原氏は樺太で憲兵隊勤務をしていた所をソ連軍の捕虜となり、抑留生活を体験されたのですが、当然ロシア語は全く出来ない状態からのスタートとなる訳です。

氏の記憶に深く残った出来事や単語、
これらを記した抑留記のお話を伺っていたときのことです。
川原氏「ヨシツネ ドームがあったといって・・・、ドームとは何の意味だったか・・・?」
私達「дом(ドーム)は家です」
川原氏「・・・・・・家?」
私達「はい、家です」
川原氏「・・・・・・・・・・・・・・。」
私達「・・・・・・・・・・。」
こんな奇妙なやり取りがありました。
あの時の古い記憶を掘り起こすような奇妙な川原氏のお顔と、
その後の深い沈黙は忘れられない出来事になりました。
氏のお話を総合すると
ソ連兵が自分達をある日、鮭の簗だかをかけるために川のほとりに連れてゆき、
朽ち果てたような集落を示した、と。あれが何か聞くと、
「大昔日本人が砂金を堀りに来て住んでいた家だ」という答えが帰ってきたそうです。
シベリアの奥地も奥地に・・・。
そのついでに、彼らの話では、
ハバロフスクかコンリモリスクのどちらかの郊外に「ヨシツネドーム」の跡がある、
と聞かされたそうです。
そのような名称が古くから言い伝えられているということには
何かが存在したのだなぁ~と思わざるを得ませんでした、と川原氏は記されています。
そして川原氏は、
ヨシツネたちはどこをどのように通って、シベリアの奥地に行ったのだろう?
と興味を覚えた、とも記されています。

実は川原氏の仰った話、というのは砂金堀りもヨシツネも
双方日本側は古来から認識していた話ではありました。
ヨシツネ、とは言わずもがな、源義経のことであり、
砂金堀りの日本人とは、奥州藤原氏の黄金の一部という説が御座います。

史実として日本の歴史の教科書では、義経は平泉で死んだことになっているのですが、
生存説は根強くあり、いわゆる「蝦夷地」へ亡命したという説が後をたちません。
最近もこれらの件について、DNA鑑定をやってみないかというお誘いがロシアの学会からありましたが、日本側は「考えさせてほしい」と返答したとのことです。

これを突然聞かされた日本人としては、おそらく誰もがマユツバだと感じ、
または歴史にロマンを感じるのかもしれません。
しかし、ヨシツネドームと砂金堀りの日本人について
長らく「歴史」として知っていたロシア側からこの話を見たとき、
何か不審感じみた感情も芽生えたかもしれません。

日本側がDNA鑑定について「考えたい」と答えた理由。
義経生存説について否定したい理由。
これは、いきなり聞かされてびっくりした、とかそういう浅い理由ではなく、
かなり根深い部分があるのです。

日本人とは。
大体西暦1600年前後ぐらいまでに幕府と朝廷の勢力の及ぶ範囲内に居た民族の集合体。
この集合体を総合して「ヤマト民族」と申します。
決して「ヤマト民族」という単一の特徴を持つ民族集団が居たわけではありません。
これは現代に於いても、出身地や両親の特徴により簡単にわかってしまうものであり、
あまりほじくって解明したところで、かなりえげつない結果が出るものであり、
全く楽しいものではないのです。

この楽しくない話をほじくり、深く探り出し始めると、
各世界で起こっている民族問題や内戦は他人事ではなく、
ご近所トラブルのように日本でも発生しかねないのです。

日本人のご先祖様が
過剰な王様殺しや行き過ぎた民族浄化を避ける為に編み出した
「ヤマト民族」という解決策は、太平洋戦争においては「八紘一宇」の理念になり、
それは敗戦によって否定された概念となりました。
しかし、現代の日本人はご先祖様の知恵の結晶、ヤマト民族として、
日々平和に暮らしております。

「和を持って尊しとする」
この「和」は現代に生きる私達が「ヤマト民族」である日本人に
強く伝えていかなければならないものだと思うのです。

今後、このシリーズに於いてキーワードになってゆく言葉は
「ブリヤート」と「ツングース」です。

※勘違いされると困るので言わせていただくのですが、
私は絶対に「持病の癪」を持つものではありません。



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