021のつづきである。

それに比べて、本来日本で伝統のあった金魚にまつわるデザインが、
いわゆる「金魚グッズ」の中にどれだけ活かされているだろうか?

伝統めいたものを全て取り払い、きれいで可愛い、それだけを目指した方がよけいにお客様にも喜ばれ、予算のかけがいもあるだろうにと、いつも考えてしまう。

つまり何を申し上げたいのかと言うと、「伝統のバックボーンの有無」と言うことである。
がっちりとしたバックボーンの元に1000人が意匠を凝らした作品を作れば、それはある共通した趣を持ち、それが文化であり、伝統の形となる。

しかし、伝統の掛け声の下にそれが「何」であるのか把握が無いまま、1000人が意匠を凝らせば、ある意味前衛芸術になり、最悪の場合はただの伝統騙りで終わるのである。

日本金魚の場合、先ず供給側がその「伝統」の骨組みについて深く考えず、消費者側がイメージで「伝統がある」と言っているように見えてならない。

私が幼少期の頃には、町に一軒や二軒の金魚屋さんはあったものである。
ところが今はどうだろうか?
あれだけあった金魚屋さんはどこへ消えたのだろうか?
「時代」が消した。
と言ってしまえばそれまでだが、「日本金魚に於ける伝統の基盤」が曖昧だったゆえの淘汰・選別だったと思えてならない。

本来なら、その「伝統」や「普及」を語れるはずの老舗と言われる、小売店や問屋、さらに業界の上部組織が率先してあらゆる事柄において「リード」してゆくのが誠であろうが「ものを言えない」のであれば、最早日本金魚の行く末は暗いものとならざるを得ない。

つづく。