お世話になっております。


本日(26日)、無事弟の葬儀一切が完了いたしました。

後は49日に納骨を行うのみとなります。


思い起こせば、

私と工藤がまだ墨田に居た2008年12月に、血尿が止まらないと病院へ行った弟がガンらしい、と父より連絡を受け、CTのコピーを見せられた日から家族の闘病が始まりました。

見せられたCTには正常な腎臓が一個しか写っておらず、左腎臓は大きく変形し、突出した異物がリンパへ接触し、腎臓を包む腹膜にはべったりと播種が起こっている、そのような状態での発覚でした。

病期はT4だったのですが、主訴はその時点でも血尿のみでした。


12月中旬に私共が告げられたことは、T4の腎盂尿管癌は2年生存率が10%であること、弟の余命は2ヶ月である、ということのみで、何一つ情報の無い状態での闘病開始となりました。


本人の動揺は勿論のことでしたが、両親の悲嘆はすさまじく、

私は病勢について嘘をついてでも本人に希望を与え、両親に情報を噛み砕いて説明をし、一日一日がその連続となりました。


今でも忘れられないのですが、

2009年の観賞魚フェアで奈良県知事賞を戴いたときのこと、

表彰式には弟が来る予定でした。

私は弟に、私と工藤はこんなに頑張ってるよ!本当に大丈夫なんだよ!だから頑張れ!と伝えたくて、弟に見せる積りでスーツを着てゆきました。

そのことに対し、おそらくは同業者の方だったと思うのですが、

図に乗りやがって等々、酷い陰口を頂戴致しました。

大体どなたかは想像がつきましたが、この時私も工藤も図に乗るどころの精神状態ではありませんでしたので、馬鹿はほっとけの世界でした。

その時に私共の友人だった他店店主さまが、おそらくは暴言を吐いたとおぼしき方をつかまえてやる、と、会場で奔走してくださって、友情のありがたさも骨身に染みました。

(私たちの思っているその暴言者は、おそらく現在店を畳んだようです。)

残念ながら弟はその時病院から出ることが出来ませんでしたが、よからぬことが耳に入るこのような会場には来なくて良かったな、と、後で話していました。

本音を言いますが、観賞魚フェアという公式の場で、そのような嫌味な人間が集っていたのでは、観賞魚振興もへったくれもありません。

運営者の方々、専門学校生など若い方々がボランティアで多数いらっしゃっているのですから、秩序・品・マナー、など、魚の質以外にもそういう所も御一考されてみては如何でしょうか?

2010年も、大体会場は似たようなものでした。

私共はもう、十分宣伝もさせて戴きましたし、同業者及び仲間として一緒に出展していた店も、この情勢にて次々閉店されてしまいました。

弟には、最後まで賞状を見せることが出来ました。

もう、賞をとれたと報告して、だから生きろと励ます人はいなくなりました。

つきましては、2011年のフェアよりは出品を辞退させていただきます。


感情が入り、話が脱線してしまいました。


2009年、4月に手術が終わり、弟は腎臓全摘出手術を無事終え、病勢は一層深刻なものへとなりました。

希望ではなく、常に「死」の文字が頭を離れず、本人は非常なうつ状態になってゆきました。

この時期、主治医と私たち家族は、本人に病勢について正確な情報を与えないことを決め、本人の耳には良い情報のみを伝えるようになりました。

どこのご家族もそうだと思いますが、病室で笑顔で馬鹿話をし、エレベーターの中で涙を流して帰る繰り返しとなってゆきました。

そのさなか、6月頭には放火騒動があり、思えばあの頃が一番辛い時期だったかもしれません。

(弟は最後まで火事のことは知らないままでした)

ネガティブな情報一切を遮断し、死に向かう弟のことを両親にも納得ゆくよう説得し、その繰り返しの毎日の中、秋には肺にサンゴ砂をぶちまけたような多発転移が起こりました。

2009年の冬、弟は会社を解雇されました。


最初移転のご挨拶で、留守の者を置く、と表現したのは弟のことでした。

豊四季に移転先を決めたのも、この為です。

まだ動けるうちに、手遅れになる前に、豊四季に店を立ち上げなければと、二人で文字通り狂ったように店を整えました。

(この時、手伝って戴いた某店主さまとその弟さま、そして老舗問屋さま、本当に有難う御座います。一生頭が上がらぬ思いです)

遅れたら弟に店を見せることすら出来なくなる、と狂奔しました。

その甲斐あって、弟は一度だけ店番をすることが出来ました。

3月15日のことです。

その時、一番お気に入りの桜の刺繍の帽子をかぶり、記念にと水槽をバックに撮影した写真が遺影になりました。

3月16日、膝に激痛を訴えて病院へ行った弟は、膝蓋骨への溶骨型転移を告げられました。

間に合ったかどうかという点では滑り込み甚だしかったのですが、

間に合わなかったということはなかったようです。


全身状態は3月から一気に下降線となりました。

弟が世を去らねばならない現実が一気に迫ってきて、

私たち自身がそのことを受け入れなければならず、また、両親が静かにその時を迎えられるよう、準備を始めねばならず、移転した店は立ち上げてゆかねばならず、些か異常な精神状態だったと自分達自身、強く思います。

7月下旬には癌性リンパ管症の発症の兆しがあり(本人には最後まで伏せました)

気管支炎だね・・・と励まして、

8月18日、呼吸不全により緊急入院となりました。

そして、22日の夜、この世を去りました。

「その時」のことを1年8ヶ月思い悩み、肺が患部であることから最悪の覚悟も決めていたのですが、

想像も出来なかったほど、とても穏やかな素晴らしい臨終となりました。

私も願わくばこのような最後を迎えたいものだとひそかに思うほど、人間としての尊厳あふれる姿でした。


病勢が進むにつれ、本人に伏せなければならないことが増え、私が時間的な拘束を受けることも多くなりました。

その点につき、弟はブログを見ておりましたので、現在の内情をお客様にご説明をする訳にも参らず、

お客様への不義理を多く致しました。

この1年8ヶ月、思うように動けないこと多く、本当にお客様へは申し訳ないことが多かったと反省しております。


思いもかけず、非常に濃密な弟との別れの時間をこの度頂戴致しました。

明日より、弟へのはなむけの為にも、通常の生活に戻ります。

より一層、店舗へと集中し、尽力して参ります。


これをもちまして、弟の葬儀一連のお客様へのご報告とさせて戴きます。


坂巻・工藤