78〜79年の録音。ヘンリク・シェリングのヴァイオリン、イングリッド・ヘブラーのピアノによるベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタの全曲録音です。端正なシェリングのヴァイオリンに、やはり楷書のヘブラーが寄り添う。シェリングはルービンシュタインのお気に入りの共演者でした。ブラームスのソナタなどとともにベートーヴェンの録音もあります。こちらは全集には発展しませんでした。オーストリアのヘブラーはベートーヴェン以上にモーツァルト弾きとして知られています。両者の間にはモーツァルトやシューベルトの録音もあります。明瞭で濁りのないピアノで展開されるベートーヴェン。それでも力感に不足はありません。オイストラフとオボーリン、パールマンとアシュケナージ、グリュミオーとハスキル。叙情的なピアノを添える録音はいくつもありました。ダイナミクスではなく、自然に流れる音楽が重視されるものです。ベートーヴェンの時代にはヴァイオリン・ソナタでのヴァイオリン、ピアノの関係は対等なものではありませんでした。ヴァイオリンのオブリガード付きピアノ・ソナタといったものが定型でした。クロイツェル・ソナタは、近代的なヴァイオリン・ソナタとして両者でつくり上げる音楽、バランスが革新的に変わったのです。トルストイが「クロイツェル・ソナタ」に描いたのは人の心を歪めてしまう音楽の力です。シェリングの演奏ではこうした妖気が漂うことはありません。織り上げられた線とバランス、ピアノの響きも力感ではなく緻密に織られた線を確認できるものです。ヴァイオリンは協奏的でさえあります。バッハの無伴奏の二回に及ぶ録音、ルービンシュタインとの共演の室内楽、ベートーヴェンの協奏曲などとともに、このベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタも大評判としてとどまるものでしょう。80年のレコード・アカデミー賞を受賞しました。シェリングのイメージを形づくった演奏。接した多くのレコードに、こうしたシェリングらしさを確認できるのです。

 

トルストイの小説を持ち出すまでもなく、こうした物語的背景とは無縁です。純粋に音で形作られた一枚。ルービンシュタインとの共演のものとで比べるのも良いでしょう。形式成立の事情によりピアニストの比重はとても大きいものです。ヴァイオリンとピアノ奏者がつくりあげていくのが共演です。シェリングは室内楽に置いて、共演者を生かし、ともに曲に奉仕するのです。

 

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