現在のセイジ・オザワ 松本フェスティバル(サイトウ・キネン・フェスティバル松本​​)の第九回の記録。小澤征爾指揮、サイトウ・キネン・オーケストラによるバッハのロ短調ミサ曲の演奏です。ストラヴィンスキーのエディプス王に始まったフェスティバルは滅多に取り上げられない作品を取り上げルことが多いものでした。ストラヴィンスキー、オネゲル、プーランク、ブリテン、シェーンベルク、ヤナーチェク、バルトーク。いくつもの二十世紀作品が並びます。小澤征爾に限らず、現代の指揮者がモダンでバッハを演奏する機会は限られます。ボストン交響楽団と演奏されたバッハの作品集はストコフスキーをはじめとしたトランスクリプション集でした。松本フェスティバルでは97年にマタイ受難曲を取り上げました。視覚的には驚かされるところもあるものですが、編成を生かした演奏は真摯なもの。ロ短調ミサにも古楽に拠ったものではない真摯な音像となっています。祝典という機会的な演奏は、ボニー(S) キルヒシュラーガー(MS) エインズリー(T) マイルズ(BS) ​​といった顔ぶれも揃いました。宗教的というより音楽の内なる情動的なものを掬い上げています。情緒過多にはなりません。東洋という世界から世界に飛び出した音楽家は、まず総譜を直截的に再現し、熱狂を引き出すことができたのです。初期の頃から二十世紀音楽が並ぶのは、解釈の常套ではなく総譜から直截的に再現するという能力の賜物でした。指揮を方法論から解いた斉藤秀雄メソッド​​も貢献することが大きいものでした。多くの指揮法の諸本に触れられていることは「指揮者には成れる者がなる」ということです。方法論に触れたことが指揮者に成れる条件ではありません。そして、才能だけではないものも必要です。

 

バッハ演奏には二十世紀作品とは異なる演奏の伝統がある作品です。リヒターの演奏の冒頭のキリエの情感ある表現などは、古楽とは異なる真摯な信仰吐露にも連なります。古くはシェルヘンやクレンペラー、モダンのカラヤンのものでさえバロックの演奏様式とは異なります。その後、モダンのバッハ演奏は少なくなりました。ジュリーニの演奏などは、あえてモーツァルト、ヴェルディ、ロッシーニなどと同じようにバッハを流麗に歌わせます。小澤征爾のバッハは、二十世紀音楽同様に、バッハの音楽の楽音を普遍的なものとして再現するところにあります。細部の表情も生き、バッハの音楽もこうした表現を許容するものです。

 

人気ブログランキング
人気ブログランキング