2021年録音。サイモン・ラトル、三度目となったマーラーの交響曲第九番。ライヴで収録されたものです。管弦楽はバイエルン放送交響楽団です。93年のウィーン・フィルの演奏も純音楽的な演奏でした。ラトルの感性はマーラーの音楽を自身の時代のものとしています。バーンスタイン以来、全集制作はあたりまえのように行われるようになりました。長大さや編成の大きさは演奏を回避する理由にはなりません。ラトルはマーラー自身の完成作品としては回避される第十交響曲にも積極的に取り組みます。バーンスタイン以上に踏み込んで新しいものの成果を取り入れているのです。第二回目の第九交響曲は2007年のベルリン・フィルとの間のライヴの記録です。それぞれの録音の間には長期の間隙がとられています。第四楽章に緩徐楽章が置かれています。静かに閉じていく音楽には特別の情感が漂います。特に、このライヴはハイティンクの追悼で行われたコンサートを契機にしたものでした。ハイティンクの2011年の第九交響曲も印象深い。古くクーベリックのマーラー交響曲全集の制作もバイエルン放送交響楽団でした。グラモフォンでのマーラー。交響曲全集制作が珍しかった時期からの取り組みなのです。マーラーの交響曲を「自身が書いたかのように感じる」としたバーンスタインは主情に溢れた音楽を奏でます。その振幅の度合いは大きく、自身が書いたような確信がマーラー的な音楽に同調するのです。ラトルの音楽の共感は、こうした同調ではありません。スコアの自然な再現をとっています。それでも粘るところは粘る。ラトル自身は演奏者の性格が反映される作品と指摘しています。マーラーの音楽はベートーヴェン的なものとは根本的に異なります。一つの音楽をいく通りもの表現の仕方を模索し、積み上げていくものではありません。マーラーは卓越した指揮者でした。まず表現者としても手がかりを総譜のうちに残しています。演奏は人間的行為ですから、その手がかりをそのまま再現しても演奏は多様なものとなります。

 

ハイティンクへの追悼といった特別な機会です。前回のベルリン・フィル盤とは異なりディスクは一枚に収まりました。全体の演奏時間は短い。バイエルン放送響もマーラー演奏に特別な経験をもち、個々の楽器もよく歌います。ラトルも管弦楽の反応を喜び、ディスク化を要望しました。スコアと指揮者と管弦楽、巨大な音楽は純音楽的な再現で再生されます。聞き手は奏者の主情ではなく、様々な印象を投影できます。再現にあたり情報の量は多い。じっくりと聞き込める盤となっています。

 

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