ワーグナー

50年代中期。クナッパーツブッシュ晩年のワーグナーをまとめた一枚。宇野功芳評「たとえば、ワーグナーの『ジークフリートのラインへの旅』をクナッパーツブッシュとフルトヴェングラーで聴き比べてほしい。英雄ジークフリートがいよいよ出発するときの心のはずみを、フルトヴェングラーはテンポを早めることによって表出しようとするが、彼が人間味をむきだしにし、興奮すればするほど、音楽のスケールは小さくなり、ひびきの透明度も失われてゆく、反対にクナは微動だにしないテンポで悠然と歩を勧め、ふところの深いワーグナーの音楽を、あたりをはらうかのような風格とともに描きつくすのだ」(『名演奏のクラシック』)で触れられた「ラインへの旅」もこの一枚に収められています。ほか、ジークフリートの葬送行進曲(57年)、パルジファル~幼い子のあなたが母の胸に(56年)、ワルキューレ~ヴォータンの告別と魔の炎の音楽(58年)、トリスタンとイゾルデ~前奏曲、イゾルデの愛の死(59年)。つまりはオムニバス盤なのですが、それは、部分を抜き出したとしても全体の中の核心的な音楽であり、クナッパーツブッシュの演奏したワーグナー録音中、パルジファル、ワルキューレ第1幕、神々の黄昏、ウェストミンスターに録音した管弦楽曲集、復刻され音質の改善した「ニーベルングの指輪」などと並ぶものです。何度も復刻されるのは選曲の妙と不動の安定感。単に記録としてだけでなく、大きさを実感できるでしょう。パルジファルでのフラグスタート、ヴォータンを歌うジョージ・ロンドン、トリスタンではビルギット・ニルソン。それに、50年代、ウィーン・フィルの持っていた音色が加わるわけです。威風をもったものですが、同時に人間的で、感情の襞をも描き尽くします。「細部の心理学」。ワーグナーは退廃的な部分もありますが、それは毒であると同時に魅惑でもあります。陶酔は時間の経過を麻痺させ、濃密なものを味わったようなものとなります。
 テンポの問題では、遅ければよいというものではありません。すでに、さまざまなワーグナー。たとえば、トリスタンに長大な長さをもたらしたバーンスタインは歌手の負担を考慮し、シンフォニー・オーケストラを用い幕毎のセッションとしました。バイロイトでのベームのテンポは早くドラマを凝縮したもののように表出しようとしました。ワーグナーの演奏、演出の規範はワーグナー自身のもとに帰結するものですが、それらの遺産を引き継いだコジマ・ワーグナー、その息子たちの演出がすべてではありません。カラヤンの透明度をもったリングがありましたし、演劇という生きたもの。時代を築いて来たものは、今日もティーレマンをはじめ「生きた」ものとして上演されています。今日の歌手は、クナッパーツブッシュ時代が「語り」の要素を残すものに対し、遥かに「歌って」います。フルトヴェングラー流のテンポの伸縮もまた、ドイツの一つの伝統でありゲルマン的な濃厚を伝えていました。こうした後期ロマン的な把握を後続がなし得なかったということに尽きます。クナッパーツブッシュの当盤も、これを唯一視することなく、その深い芸を堪能できる時期に来ているのかもしれません。深い呼吸、歌手、細部を描く管弦楽。それはそのままワーグナーの音楽であり、クナッパーツブッシュの芸となっています。

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Hans Knappertsbusch "Siegfrieds Rheinfahrt" Götterdämmerung '40

Hans Knappertsbusch "Siegfried`s Death and Funeral March" Götterdämmerung
Orchestra of the Bayreuth Festival
Hans Knappertsbusch, conductor
Bayreuth 17.VIII.1956