
2009年。2008年から2010年にかけての4回に分けての収録され、分売されたティーレマンのベートーヴェン交響曲全集から、第7、8番。序曲を入れないのに、6枚という分量。全て、ライヴ収録された上に、ウィーン・フィルとの組合せとなっています。短い期間には貫かれたものがあり、旧然のプライトコプフ版、ヴァイオリン両翼の古典配置など、古い美学の信奉。それは時代と逆行するために目新しいものがあり、同時に、過去の名匠たちと同じ土俵での演奏は、比較を免れることはできません。これは分売されましたが、通常、全集として企図される場合は、音量が問題になります。つまり第9番を頂点に、いわゆる奇数番号の編成を核に、初期の2曲、4、8番を小型にするというもの。ベートーヴェンの耳疾。とくに第3交響曲以降は、その原音主義ともいうべき楽器の直接的な音色が特徴です。管の増強はホルンなど、わずかなところにとどまっていて二管編成。ロマン以降の大編成、拡大志向で肥大したものとは違い、その機能を生かして音楽に生命を注ぎ込むことはモダンであっても、古典楽器であっても困難なことには変わりありません。あえて伝統と向き合いながら、トスカニーニ、カラヤンなどのすすめていった即物的なものとは違い、テンポは伸縮し、演出が加えられます。解説の指摘は、それをピリオド楽器の登場による成果の導入としていますが、前提となる楽器の違いは、モダンとの折衷といったものではありません。まして残響も豊かな環境。かえって、遠くセルの乾いた即物の方がよりモダンに響くぐらいです。柔らかな響きと、オーケストラの即応性。とくに第7番の交響曲の冒頭の序奏のテンポは問題になり、かつての大交響曲。ベートーヴェンは第7交響曲に人気が集中し、より小型の第8交響曲を擁護しました。LPでの収録にも1曲で充足する内容。そして、録音が一大事業であった時代に、一人の指揮者が収録することは一大事業であり、録音に興味を示さない指揮者も多かったものでした。フルトヴェングラーでも3,5番の圧倒的な演奏の総量がありますが、録音の間隙のような交響曲が存在します。現代のライヴは、多くのマイクがたてられ、コンピュータを使用した編集が前提ですが、ライヴでの演奏の精度、拾い上げる音の情報の多さという点でも特筆すべきものです。とくに、残響は、こうした収録法を考慮に入れているため、ひじょうに豊かなものを感じさせます。オーケストラの対応も、そこに経験と指揮者が誰であっても変わらない美質。ティーレマンも理解した上での自発性を引出しています。
ワーグナーが舞踏の聖化と呼び、リズムの刻印は明瞭に示されます。そこにはリズムが導く牽引があり、熱狂へと続くのですが、同時に、それはスポーツ的な演奏、底の浅さの露呈にもつながります。クレンペラーは、あえてそうした機動性を抜きに、分厚く進めましたが、そこからあえて排除されたところにも問題があります。奇数番号、その男性的性格。2楽章は不滅のアダージョであり、かつてはここに高い精神性を認めたものでした。現代の演奏は、そうした文学的なところとは別に楽譜をリアルに把握します。録音の情報量、ディティールの拾い出しにも成功し、これは従前の演奏からは柔の表情ですが、テンポも緩やかですが推進力を保ち、演出も作為は感じさせません。とくに、第7番は、5番との組合せでフィルハーモニア管弦楽団とも収録されており、その比較も興味深い。ピリオド楽器登場後のモダン。現代ではもう一つ、ラトルとベルリン・フィルも無視できません。モダンの在り方を再考させられます
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