$ラストテスタメント クラシック-デフォルメ演奏の探求-ペレアスとメリザンド

カラヤンのドビュッシー「ペレアスとメリザンド」。「サロメ」ではベーレンスを見出し、「ペレアス」ではシュターデが一躍世界の檜舞台に立つこととなりました。このシュターデは、まず容姿と、もって生まれた気品。当盤の解説には「楽譜が読めず、聴き覚えだ」「大部分の時代をパリでセールスガールやパートタイムの秘書をつとめナンニーと呼ばれていた」。それは美しい映像の残る現代のシンデレラ(チェネレントゥラ)にも似た伝説でした。広範なレパートリー、とりわけモーツァルトの諸役です。「ペレアスとメリザンド」は最初、ワーグナーに耽溺したドビュッシーがそこから離れ、とりわけ「トリスタンとイゾルデ」のアンチテーゼがあります。「ものごとを半ばまで言って、その夢にぼくの夢を接ぎ木させてくれるような詩人。時はいつ、所はどこと設定されない登場人物を構想し、《山場》を頭から押し付けたりせずに、ぼくが思い通りにそこここで彼以上の腕前を発揮したり、彼の作品を完成させたりするようまかせてくれる詩人」。その詩人をついにメーテルランクに見出したドビュッシーは、その戯曲をほとんど改編せずにそのまま用いた上、音楽を豊穣に散りばめ、まさに夢が接ぎ木されています。一方、フランス語の抑揚をそのままに、そのリズムに音楽が即応するような書き方は劇的な進行をさまたげずに、音楽と劇が一体になっているという利点の一方、事件らしい事件がおきないというフランス的なオペラの一つの特質そのもので、退屈を覚える向きもあるでしょう。ある意味、20世紀オペラはペレアスにはじまり、かなりなハイブロウな作品です。しかし、本作は映像が少ないとはいえ、音盤が多くつくられ、そのどれもが特徴的な演奏史を刻み、そして知識人以上に大衆に支持されたオペラ。そこにはアリアらしいものはなく、続くシュプレヒゲザングにつながる言葉そのものが魅力。ここに清浄を見出すと、まさに肌合いにぴったりと寄りそうな心地よさに包まれるのです。シンボリズムに彩られわかりにくいのですが「不倫」がストーリーの一環です。それはアンチテーゼとされた「トリスタンとイゾルデ」と同様の物語。「恋はかけひきというが、かけひきのない恋とは何か?」というなぞなぞに対し、答えは「幼い(押さない)恋」。ここでペレアスとメリザンドの間にかわされる交歓は、無自覚である一方、純粋です。そこには「水」の暗喩があり、井戸をめぐる指輪、メリザンドが見出される場に見出せます。出産し、母となり、そして死んでもその幼さ、少女性は減殺されません。
 こうした言葉によって牽引される作品にかかわらず、当盤が有名なのはカラヤンのディスクだからですが、通常の意味でアンゲルブレシュト、アンセルメの新旧、クリュイタンス、フルネといった往年のフランス勢、もっと現代的知性を盛り込んだブーレーズなどの盤とも違う。そこには、イタリア、ドイツの二つのオペラで成功したカラヤンが手兵のベルリン・フィルを振っています。若い頃から得意として、演目としていたカラヤン。そして、シュターデを見出し、スティルウェル、ファン・ダム、ライモンディ、カラヤン好みのキャスト、ここにドビュッシーが紡いだ音の糸にカラヤンの接ぎ木が添えられたのでした。作品の長さ、今は収録時間の長さから2枚に収まりますが、通常3枚のディスクになる「ペレアス」はほとんど事件らしい事件もないままにかなり長い。このカラヤン盤が心地いいのは、この精妙な音の中にほのめかしの中に官能性があるから。それが演出巧者のうちに運ばれ、音盤では肌合いのよい音響が続くことになるのです。吉田秀和氏「これをレコードだけで知っていたころは、どこもここもあまり変わらないのに、二時間もつづくなんて、どうみても長すぎると思っていた。しかし、劇場にすわってきいていれば、そんなことはない。その間の一瞬一瞬が充実して流れ、しかも、あんなに音楽は寡黙なのだ!メリザンドなんか、まるで溜息をつくだけで、まったく歌わないみたいではないか!これほど猥雑さか遠いオペラが、プッチーニ、シュトラウス、マスネーの十九世紀に可能であったとは、まったく奇蹟だ、と私は思う」。ウィーン・フィルとベルリン・フィルの使い分け、カラヤン美学とは何かを知るために、このディスクは欠かせません。心地いい肌合いのうちに搦めとられる官能。78年録音。

クリックよろしくお願いします 星       
        ↓
    


冒頭 ゴロー、泉でメリザンドに出会う
作品は五音音階などの語法に、ライトモチーフの使用があります。フォルティッシモもわずかに4回でるだけの清澄

第2幕 庭園の泉 ペレアス、メリザンド「盲目の泉」に誘う

ハイティンクの映像 1幕

シュターデ メトのガラ