
三一致の法則、すなわち「時の単一」「場の単一」「筋の単一」のことです。劇は一日のうちの、一つの場所、一つの行為で完結するという劇の原則。筋が錯綜すると観客が混乱してしまいます。それが、「ドン・ジョヴァンニ」にも活かされている。騎士長はドン・ジョヴァンニに殺され、夕べには石像になっている。たいへんな不条理ですが、これも原則が遵守されたからに他なりません。モーツァルトは、この作品を「ドラマ・ジョコーソ(喜劇<的>)」と呼びました。しかし、この作品を喜劇と考える人はあまりいません。終幕、地獄堕ちの場で終わらせたのがウィーン時代のマーラー。この上演は評判を呼び、ブラームスも感銘を受け友人にも勧めているぐらい。伝説によると、モーツァルトは初演前夜になっても序曲が未完成。徹夜で完成させて写譜屋に草稿を渡すことになりました。冒頭のニ短調の主和音のトゥッティは石像が登場するときのものと同じですが、完全なトゥッティではなく低音が半拍残ります。石像が足をひきずる様を表現したという人もいます。すでに序曲の中に騎士長やレポレロの音型が練り込まれている。一夜漬け(しかも途中、モーツァルトは居眠りしています)とは思えないほどの工夫、天才の跡。
第1幕フィナーレ。舞台でそのニュアンスを掴むのはたいへんですが、3つの異なる舞曲の場も有名です。身分、立場の違い、習俗などを現していて、劇中の進行は村娘ツェルリーナが、貴族であるドン・ジョヴァンニに惹かれていく様子が描かれます。拍子、テンポすらも違い、なんと調弦まで書かれているという念の入れよう。3/4のメヌエット(貴族)、2/4のコントルダンス(市民)、3/8のドイツ舞曲(庶民ーレポレロとマゼット)。オーケストラも衣装を付けて舞台にあがります。終幕の晩餐では「フィガロ」の引用、石像になった騎士長が登場する場面でのトロンボーンの荘厳な効果、地獄堕ち。ゲーテはいいました「私は、デーモン(魔神)は人間をからかい愚弄するために、時としてあまりにも魅惑的な人物たちを生み出してみせるのだ、という気がしてならない。ーー『ドン・ジョヴァンニ』を作曲したモーツァルトも、音楽における到達しがたいものとして、魔神によって生み出されたのだ」。小林秀雄の『モォツァルト』での引用。ギリシア語のダイモン。キリスト教社会の中、これが次第に「悪魔」を意味するものとなりました。「デモーニシュ」とはその形容詞。多くの発見を見出すことができ、今もこのダ・ポンテとモーツァルトによって創造されたこのキャラクターは舞台の上に生きています。
デモーニシュ的なモーツァルトを最大限にあらわした演奏が以前、採り上げた1942年3月7日のワルターのメトのライヴ。ワルターは以前「ゆるふん」と言っている人が大勢いました。その印象の多くはコロンビアでの淡白で微温的なスタジオ盤の印象に起因します。その後、出て来たライヴでのワルター。特に大病前のものは端正や微温とはほど遠いものも頻出。特に、このライヴは印象的です。またベームの古い方のスタジオ盤、アバドとクレンペラー盤をあげました。残念ながらレーベルは今も昔も契約に縛られ、自由に高度な音楽的内容で行き来できるものではありません。多額の制作費がかかる上、時間的にも縛られ、商業的な受容のない今、新たなベストメンバーでの音だけによるスタジオ盤が生まれる可能性は低い。また、演奏も難しい上、指揮者にとっても並の覚悟ではいられない作品(ベームも警句を述べていました)。歌手を集めても単なる歌合戦になる可能性もあるのです。ドラマ・ジョコーソ。喜劇的な音楽運びも無視できません。
59年。若きジュリーニのスタジオ盤はクレンペラーを予定していたものが、急遽指揮者の病気で変更されたといういわくつきの盤。キャストもそろい、生気あふれる音楽運び。ヴェヒターのドン・ジョヴァンニにサザーランドのドンナ・アンナ、カプッチッリのマゼット、ほかシュヴァルツコップ、タディも手堅い。今でもこの演奏での規範です。
クリックよろしくお願いします
↓
序曲
メヌエット
1幕フィナーレ
参考 ドン・ジョヴァンニの地獄堕ち ロイヤル・オペラ・ハウス

序曲の冒頭 低弦(ファゴットも)が半拍残る