先だってムターの「四季」を見に行ってきました。以前採り上げたムターの「四季」が出た99年。最初の夫を亡くし失意のどん底。カラヤンの指揮のもと録音した四季もありましたが、カラヤンの棒のもとではソリストの個性よりもカラヤン色に塗られた世界が展開してしまいます。何か勝負をいどむかのようなジャケットの視線。表現もあえて表現主義のようなもので、ほかと違うということにこだわった演奏でした。そのために、表現が空すべりしたところ、練られていないのではという印象もあったのは事実。以前のディスクでも現代ものを弾いたときでさえ持ち前の音の厚さに彩られて健康的な音楽にしてしまうところがありました。
 最近の録音、そしてライヴに聞いたムターはあえて先鋭的な方向に向かう必要はないのだと感じました。心の平穏を取り戻したのか、その肉厚なヴァイオリンの音に聞いたのは突き詰めたような表情の鋭さではありません。また新たな方向に向かいつつあるヴァイオリニスト。
 ヴィヴァルディの「四季」。すでに多くのディスクがあります。アーノンクールの「四季」以降、先鋭的な演奏はアーノンクールを超えるものもあらわれました。一方、イ・ムジチに代表される穏健なもの、指揮者をたてるもの、そして、ムターのようなヴァイオリニスト主導のものなど。すでに何枚も「四季」を聞き、先鋭さもついていけないレベルに達している昨今、ヴァイオリニスト主導型の方向を行き着くところまで極めた盤、それがキョンファ盤です。
 ここに聴くキョンファのソロは先鋭的なものはありません。初期に協奏曲を録音していたころの集中度の高さとも別のものです。出産後、復帰レコーディングをはじめたころのキョンファはかつての集中度がうそと思えるぐらいしまりのない録音もみられたものです。最近のベートーヴェンやブラームスの録音、そしてこの「四季」からも、あらたなキョンファの方向がうかがえます。円熟という方向、それはヴァイオリンという楽器の特性から、指から、弓からその呼吸が伝わります。ムターの向かう円熟とキョンファの向かう円熟はまた違うものです。少なくとも、レコーディングに聴くキョンファのこの「四季」の録音に聴くノーブルさはあえて先鋭的なことをしなくても音楽だけで十分勝負していける王道。このスタイルの最高峰になっていると思います。
 キョンファ盤にはキョンファ自身の解説が録音されて、対訳もついています。東洋人として季節の移り変わりに敏感であること。ヴィヴァルディがオペラを意識してその手法を協奏曲に取り入れたことを述べています。古楽の人を驚かせるような効果のヴィヴァルディはいくつもでました。最近、食傷気味なくらいです。キョンファもときにみせる集中。それも作品が要求しているからで特別なことをしているわけではありません。芸格の高さというのはこうしたときにあらわれるものかもしれません。古い録音だけでこの曲を楽しんでいる人にも現代にも名演が生まれる余地があることをしらせてくれます。

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