空はどこから/猫の長靴 -84ページ目

空はどこから/猫の長靴

日記は苦手だけど、何があって何を思ったのか、あんまり分からなくなるのもねぇ(´Д`)
だからちょっとだけ、記録を残します。

路上ライブの見っけもの……

ある夜、雌羊(うちの女房)が
「すごいの観たよ!」と興奮して帰ってきた、CDを持って。
「なんかスチールギターみたいにジャジャジャーンで聴いてる人がオオーみたいな……」
その表現、もうちょっと なんとかならんか?

それから二ヶ月ほど後、通勤経路、いつもの乗り換え駅でホームに降りようとすると、くだんのジャジャジャーンが聞こえてきた。

スチールギターのような音色、激しく弾きならされる弦
急いで駅前広場に飛び出すと―――
居た!
『MASKROID』

なるほど、引き込まれるね。
アンプに繋いだアコースティックギターの調べ
エレキとは音の広がりがまた違う。
インストゥルメンタル、歌詞はない。
ひたすらテクニックに浸る職人芸のようにもみえる。
言葉を綴らない分、逆にパッションがストイックに伝わってくる。


曲が進むに連れて、聴衆の群れが厚くなる
妻を電話で呼ぶ
チラシを受け取りつつ、何時までいるかを訊ねる
なんとか間に合いそう。

そして、ゲットしたライブチケット。11月2日――

右矢印右矢印右矢印右矢印右矢印

客層は、ちょうど私の前後
MASKROID自身が30才直前であることを考えれば、少し渋めかな
お馴染みさんで盛り上がっている人もいれば、地蔵さんみたいな年配者もいる。
基本、路上ライブの積み重ね――犬も歩けば棒に当たる、のファンだろう。

ギターに加えて、ベースにパーカッション、そしてMASKROID京都時代の盟友が特別ゲスト
言葉はいらない、みんなが音に酔っている――演者も観客も――
極上なひと時が流れる~~♪


ライブ後、妻がCDを買っている間、私はステージのセットを写した。


CDは5色5枚ある。
今回3枚買ってコンプリート
マスクレンジャー揃い踏み


次のライブは年明け
ニューバージョンのCDを作成中とか
この5枚を節目にして、次のステップに駆け上がるのかも知れない。

家のCDチェンジャーで5枚をループする。
音の心地良さに浸る。
ふと思った
私は「言葉」にこだわってブログを書いている。
でも言葉を紡がない音楽って、究極の「国際語」なんだよな……



さて、会場にて
妻はCDにサインを貰った。

3枚あるから……

「けいたSAN」と「あっき-SAN」

で……

ぱいみるSAN、って……
誰?




ポスターがね、猫なんだ。

それも見事な黒猫――



東京国立近代美術館―【菱田春草 展】
見つめあえたら、きっと運命 。

ごきげんよう。
突然目が合ってしまいましたね。
さてはあなた、猫好きですね?

いいコピーだなぁ
しみじみ……


菱田春草は近代日本(明治期)の代表的な画家
日本画が趣味――ライフワーク――の妻は当然知っていたが、私は知らなかった。

落葉をモチーフにした絵が有名で、晩年には猫やカラスを好んで描いた。

右が代表作『黒き猫』
左はその前の作品

『黒き猫』は展覧会出品を予定していた作品が頓挫し、5日間で急遽仕上げた。

この絵の完成度の素晴らしさは、以前に何度も描き、春草の内面で練りに練られた画題だったからであろう。

これは35才の作品
そして36才(!)、慢性腎臓炎で亡くなった。

気怠い病身を抱えた画家の眼に、この黒猫はどのように映ったのだろうか。

『黒き猫』の凄さは、その筆致にも顕れている。

なんと、猫でありながら「毛描き」がされていない。
墨のぼかしだけで猫の質感が描かれている。
その前の作品――左の絵には僅かに毛を描いた筆あとが残っている。

毛のない猫は……猫(けもの)じゃない
晩年の春草が見た黒猫は、何か異界のものだったのかも知れない。

もう一つ……
ここに描かれた樹木、これは柿の木である。
同じ幹・枝ぶり・洞の樹木が、他の絵にも描かれている。
春草の家の庭木だったのかも知れない。

しかし、代表作『黒き猫』――5日間で仕上げた渾身の作品――では、黄葉の柏に変わっている。
現実の樹種が変身するわけはない、
春草の心象風景が変わったのだ。

今にも落葉せんとする色褪せた葉、うずくまる黒いモノ
というのは、私の心象
……さて?


眼福を得て、会場を後にする。
その前に――

例によって間抜けな夫婦
猫好きだけど、好かれているかは甚だ疑問

黒猫と けいたのパパ


白猫と あっきのママ

え?
けいたと あっき って?

これが けいた


これが あっき


一応これも、愛猫家(妻)の日本画です

お粗末ながら……






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「水俣病」と聞いて、胸がざわつく世代は どのくらいまでだろう。

公害――人間が冒した環境汚染による広範な人身被害。

そして水俣病は、(水銀)中毒は胎盤を通して胎児にまで及ぶ
ということが世界で初めて証明された事件。

公害は私のリアルタイムだった。
小学校の授業で「水俣病」「イタイイタイ病」を習った。
NHKの教育番組で患者さん達がブルブルと痙攣している姿が映された。私達はそれを教室のTVで見た。
「気持ち悪い」とつぶやいた児童に、教師はひとこと「この人たちは なりたくて こうなったのではない」と言った。
教師としてではなく、ひとりの大人として、それだけをつぶやいたように思う。


今回、私は仕事上の視察旅行で水俣市を訪れた。
国道沿いの「水俣病資料館」と書かれた案内板を見て「ざわつきますね」と言ったが、誰も反応しなかった。

現地解散の後、車を運転してくれる後輩に、ちょっと寄ってみようと誘った。帰りが遅くなる後輩は、少し迷惑そうだった。

だだっ広く、閑散とした公園の敷地の中で、道を間違えそうになった。海沿いの平地に広がる公園を横切り、一番奥まった高台に、その資料館はあった。


すでに閉館は30分後に迫っていた。
受付で「映像を見ますか?」と聞かれた。
「15分ありますが、これを先に見た方がよく分かりますよ」
これだけで時間がなくなるな、と思ったが、映像が持つ説得力に期待して、後輩と二人、上映室に腰かけた―――

*****

上映後、展示室を駆け足で廻り、書籍を買って立ち去ろうとして……引き返した。

受付の女性に訊ねた
「ここ、お客さんはどのくらい来ますか?」
今日は200人くらい、と聞いてへぇ~と思った。でも、それは小学校の団体だった。
県内の小学生、九州の中学生が社会見学で訪れ、語り部の話を聞くらしい。
「大人は?」と訊くと、少し間があって、「老人会の方達とか……」
それから思い出したように
「今日は外国の方が来ました。ドイツの人が5人」

なんでだよ!

と思った。
なぜ大人が訪れない。
今、社会の一線にいる大人こそがこれを見ておくべきなのだ。
勉強のためでも懐古のためでもなく、
今、「加害者」になるかも知れない当事者として。

視察旅行で見識を深める
組織の利益――ひいては社会の発展のために――
ならばまずここに来て、これを見て、自省することから始めるべきだ。


15分の映像の中で、私と後輩(隣りの県の出身)は、この広大な公園がヘドロ水銀を埋め立てた上に造られたことを知った。


私は想像した
福島第ー原発……いつか、この問題が終息(?)した時
あの広大な敷地跡にも、こんな公園が造られるのではないか
そして、その一番奥まった場所に、ひっそりと「原発事故資料館」が建てられるのではないか


15分の映像を見て、私達は顔を見合わせた
なんか、変だよね……
公害問題の発生、発覚を駆け足で辿り、訴訟の経緯に時間を割く――
公害は終息し、復活した海の美しい映像、式典で挨拶する政治家(たぶん環境大臣)の写真。

そしてやたらと数字が出てくる。
情念を押し潰し、冷たい数字で煙に巻こうとするかのように

きっとこれが、行政が作る記録というものなのだろう。


私は思う
世界中に「公害」を知らしめた「水俣病」
その被害者の姿は映し出される。
でも、加害者は?

世の中に渦巻く見えない悪意、それがある時、ある一部の人達に集中する

被害者の顔は見えても、加害者の顔は見えない

それが「社会悪」の本質なのだ。
そしてその刃の標的になった人達は「運の悪かった人」となる。

裁判は数字で罪の重さを量る。
それは事件をシステマチックに処理する方便でしかない。

人の心、倫理を問う問題に「解決」はない。

「水俣学」を提唱する原田正純氏は書いている――
足尾銅山の鉱毒事件は百年経った今も研究が続けられている。
足尾が百年研究され続けているのなら水俣はあと二百年、研究し続けなければならない。


社会が冒した犯罪に解決はない。
もし、解決に近いものがあるとすれば
「忘れないでい続ける」
ということだけだ。





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