空はどこから/猫の長靴 -182ページ目

空はどこから/猫の長靴

日記は苦手だけど、何があって何を思ったのか、あんまり分からなくなるのもねぇ(´Д`)
だからちょっとだけ、記録を残します。

昔、国語の教科書にこんな文章が載っていた。

筆者が小学生の頃、字が下手なのを気にして先生に相談にいった。
その先生は「そうですか?そんなに下手ではないでしょう」と言った後
「字を書くときに、少しでもキレイに書こう、ていねいに書こうと思いながら書きなさい」とアドバイスした。
文字に限らない。
どんなことでも、少しでも上手になりたい、と思い続けていれば、きっと上達する…
という話。



俳優にして脚本家、金子正次は言った
「脚本ってのは、誰にでも書けるんじゃないでしょうか」
…これは、言葉を補足する必要がある。

→常に映画のことを考え、映画を観ながら、こんな展開にしたい、こんなセリフはどうか、と頭の中で練り続けている人ならば…「誰でも脚本が書ける」




金子正次、主演・脚本の映画『竜二』は印象深かった。

冒頭、「あんた三東会の竜二さんでしょ?」と言われた時の(誇らしげな、あるいはシャイにも見える)笑顔。

ラスト近く、「大根も高くなったわねぇ」と家計簿を付ける妻に「うるせぇ!」と怒鳴りつけた時の、切なく荒んだ表情。


金子は語っている。
…名画座で、健さんの任侠映画がかかっていた。
ヤクザの美学を体現する健さんを見ながら、街のチンピラ(下っ端ヤクザ)達が涙を流している。
でも自分には、彼らと一緒に泣く資格はない、と思った…


金子は、彼ら下っ端ヤクザに何を感じ、何を描こうとしたのだろう。



これは余談だが、こんな話を読んだ…
やっぱり名画座で、『男はつらいよ』がかかっていた。
あわや、寅さんの濡れ場?というシーンがあった。
幼い子を寝かしつける女性の腰回りが、ねっとりとスクリーンに映し出される。
隣の部屋では寅さんが茶碗酒を啜っている。
寅さんは、その腰に視線をやり…そしてそらす。
「寅さん、どうした、やれやれ~」と観客席から声が上がった。
すると、前列にいた客が立ち上がり、涙声で怒鳴った。
「寅さんは、そんなことしない!」



さて、金子正次は『竜二』公開中に、33才で病没した。
4本の脚本(いずれもヤクザ映画)が後に残った。

しかし、他人の手による映画化は
『チンピラ』…論外
『ちょうちん』…茶番
それ以降は観ていない。


任侠映画で涙するチンピラに、金子正次は何を見たのか。
その想いを表現するために、どれほど頭の中で脚本を練り上げたのか。

それを共有し得る者でなければ、金子脚本の真の映画化は出来ないだろう。








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愛猫の死をきっかけに書き始めたブログも、前回で72回となった。
なんとか続きそうだと思った頃、目標回数を意識した。

108回…煩悩の数である。

とりあえず3分の2に達した。
108の煩悩を吐き出して、さて何が残るのか?



TVの特集で、身障者の子供を持つ母親が取材されていた。
生活のほとんどが子供の介護に費やされていた。
「私には、他人(ひと)のことを考えたり、思いやりを持ったりする余裕はありません」
その母親は、感情を表すこともなく、淡々と語った。


数百グラムの未熟児を産んだ母親のノンフィクションを読んだ。
明日をも知れない我が子を見舞った帰り、病棟のエレベーターで別の母親と乗り合わせる。
まぶたを腫らした眼で見つめ合うが、言葉は交わさない。
声を掛ければ、ふたりとも泣き出してしまうからだ。


偽善者ファイミルには、所詮こんな厳しさはない。口先でキレイゴトを言っている。浅ましいことだ。



脚本家、山田太一さんの作品には、いつも真摯な思いが溢れている。
現実に有り得る設定の中で、登場人物は悩み、考える。

そして小さな結論を出す。
完全なハッピーエンドではない。
奇跡は起きない。幻想もない。
ただ、ちょっとだけ、それまでの自分を変えようとする。


代表作の一つ『男たちの旅路~車輪の一歩』

これはシリーズ物で、警備会社に勤める若者二人と、特攻隊上がりの上司(戦中派が現役の時代である)がレギュラーである。
彼らを狂言廻しとして、毎回様々な人間模様が描かれる。



『車輪の一歩』では、車椅子の青年たちが主役となる。

世間から疎外される障害のある人たち~タクシーには乗車拒否され、アパートを借りたくても門前払い。
(まだバリアフリーの発想がなかった頃だ)

車椅子の少女は家に閉じこもっている。
全生活を支える母が老いた後のことは、何も考えられない。

車椅子の青年たちは、この娘を青空の下に出そうとする。
そして、アクシデントが起こる。

警備会社の三人は、彼らと関わり、その現実を目の当たりにする。

若い一人がつぶやく
「なぜ、彼らはあんなに真面目に頑張れるのだろう」

上司が答える
「おそらく…彼らにはグレたり世を拗ねたり、そんな余裕がないのだと思う」

そして皆で悩み、語り合い、一つの結論を導き出す…

それが「車椅子で踏み出す一歩」

目の覚めるような解決策なんてない。
でも、せめて小さな一歩を…


作者は、登場人物と一緒になって考え、悩み、やっとこの結末に至ったのだと思う。

私は、山田太一さんの創作姿勢に、深く敬意を表する。

ただし…山田太一さんのドラマは、こちらも一所懸命に観ることになるので
…疲れる(●´ω`●)




ところで
このドラマのヒロイン、車椅子の娘を演じたのは「斉藤とも子」さん。

清潔感に溢れ、知的で、当時の若者たちの憧れのマトだった。

やがて、28才年上の芦屋こがんと結婚した。
一子をもうけ、7年で離婚した。
こがんは離婚の一年後に、30才年下の女性と再婚した。



私は切に願う
私の大好きな「あの娘達」が、
いつか誠実な男性と結婚し、落ち着いた家庭を築くことを…

それが今の私の、一番の「煩悩」である。






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嘘はどこまで許されるのか?


映画『人間小説家』は井上光晴の実像に迫ったドキュメンタリーである。

井上自らが語る不幸な出来事

井上が幼少の頃、母親は彼を捨てて家を出た。そしてそのまま、行方は知れない。

初恋の少女が女郎屋(売春宿)に売られた。
井上少年は、ひとめ逢いたさに女郎屋を訪ねる。
そして女郎たちにからかわれ嘲笑される。
外に転がり出て建物を振り返る。
二階で大笑いする女郎たちの中に、あざ笑っている少女の姿があった。

井上の思い出話は切々と続く。

が、映画はそれからとんでもない展開を見せる。

古くからの友人、瀬戸内寂聴さんがインタビューを受ける。

ああ、井上さんのお母さまね、入院中に何度かお見舞いして、お葬式も行かれましたよ。

初恋の人ね、女学校を出られて、いまでも同窓会とかで連絡を取られてるようですよ。

あれ~?

そして井上はうそぶくのである。
「自分を貶(おとし)める嘘は、いくらついても許されるのだ!」

本物の小説家って、やっぱりバケモンだな~




さて、私が許せない「映画の嘘」

香港映画『宋家の三姉妹』
辛亥革命から国共合作に至る動乱期を描いた歴史ロマン。

宋家とは、中華民国に君臨し『宋王朝』とも呼ばれた一族。

長女靄齡(あいれい)は富豪と結婚し、夫婦で中華民国の重鎮となった。

二女慶齡は親子ほど年の違う孫文と結婚し、一族と袂を分かって今の中国の建国に貢献した。

三女美齡は蒋介石と結婚し、台湾でもファーストレディとしてアメリカ外交をリードした。

中国では、三姉妹をこう評する。

長女は「カネ」と、二女は「人民」と、三女は「権力」と結婚した。

絢爛な映画である。トップ女優を三人揃え、映像も美しい。

しかし、絶対におかしい!

この映画には長男「宋子文」が出てこない。宋王朝の中枢はこの人物なのである。

美女共演のロマン映画として必要ないから、存在を消されちゃった?

たとえば幕末史で
龍馬がいない薩長同盟がある?
海舟がいない江戸無血開城がある?

こんな史実無視をされると、うかうかと歴史ドラマを見れなくなる。


↑これは、私が史実を学んだ「ノンフィクション」




さて、最後は邦画なのでちょっと言いづらい。

山田洋次監督の『母べえ』
原作は黒澤映画で長年スタッフを勤めた女性の「実話」
ちょっとフィクションを加えている。
が、ちょっとじゃない!

大学教授の父親は、共産主義者の疑いで特高に捕まり、拷問の末、獄死する
…が、実際は無事釈放されている。

親身に家族を支えてくれる父の教え子は、徴兵され戦地に向かう途上、輸送船の撃沈で溺死する
…が、事実は戦後も息災である。

嘘が過ぎるだろ~



私は考える
ドラマ作りにおいて、登場人物の死で観客を泣かそうとするのは下策である。

架空の人物であろうと、誰もが幸せになろうと懸命に生きている。

しかし神の手の平からこぼれるように、どこかに不幸が生まれてしまう。

そこに「人の世の哀しみ」がある。


困難なシチュエーションの中で、
いかに人を生かせるか
輝く存在として描けるか
それこそが問われるべき脚本家の力量だ。

話の都合で、事実を無視したり、人物を死なせたり、安易な嘘をつく物語を、私は評価しない。

『寅さん』では誰も死んでいない。
でも私は、笑って、泣いた。







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