空はどこから/猫の長靴 -142ページ目

空はどこから/猫の長靴

日記は苦手だけど、何があって何を思ったのか、あんまり分からなくなるのもねぇ(´Д`)
だからちょっとだけ、記録を残します。

若山牧水は日向の国、坪谷に生まれた。

生地には若山牧水記念館がある。



生家も保存されている



先月、宮崎県に行ったが、仕事中だったので、外から写真を撮っただけ。


これだけでは、あまりに曲がないので、道の駅で地元の本を買ってみた。

牧水かるた百首鑑賞本



地元では、情操教育として牧水の歌でカルタを作り、子ども達に遊ばせているらしい。

いいことだね。
きれいな日本語は、まず触れさせ、飲み込ませてしまえばいい。
意味なんて後から付いて来る。
むかし覚えたフレーズが、ある時ふと、心に浮かんでくる。
情操を涵養するって、そういうことだ。


この本、帰りの飛行機内で一気に読めてしまった。

以下、気になった歌を数首ほど


▷▷▷▷▷


「幾山河 越えさり行かば寂しさの
終(は)てなむ国ぞ 今日も旅ゆく」

──これは有名な歌で、よく国語の教科書に載っている。
しかし、私は好きではない。
この歌には風景も音も匂いも感じない。

牧水の歌には「さびしい・かなしい」が頻繁に出てくる。
何がそんなにかなしいんだろうと思う。
裕福な家に育ち、功を成し遂げ、家族は円満。

世の中で何より悲しいのは「貧困」だ。
食べられないことが一番辛いのだ。
生活苦と無縁の人に「悲しい」を連発されてもねぇ
……などと思ってしまうのは、私に詩情が足りないせいであろう。



『白鳥は哀しからずや 空の青 海のあをにも染まずただよふ』

──この歌も、よく教科書に載っている。
これは好きだ。
景色がある。潮の匂いがする。
空の青さ、海の碧さ、そして鳥の白さが目に沁みる。



「地(つち)踏めど 草鞋(わらじ)声なし山ざくら 咲きなむとする山の静けさ」

──目の次は耳だ。
ワラジでひたひたと歩く静けさを「声」と聞いた。

私も仕事柄、よく地下足袋で山道を歩いた。
クワで掘っただけの、身体の幅ほどの簡易な歩道だ。

足の裏に伝わる土の軟らかさ、
枯れ葉を踏む音、季節の匂い。
なるほど、「声」か…



「石越ゆる 水のまろみを眺めつつ こころかなしも秋の渓間に」

──これは驚いた。
水の表面張力……形に沿って包むように盛り上がる……
その「水の有り様」を「丸み」と表現した。

確かに
河底をなぞり、岩を乗り越えて流れる水は「丸い」



「おもひやる かのうす青き峡(かひ)のおくに われのうまれし朝のさびしさ」

──牧水の文章によれば
「縁側に坐っていた母が急に産気づいて『ことんと音をさせて』(自分を)生んだ」という

己の誕生を静寂なイメージで表現したかったのだろう。

でも、きっと
そんな穏やかなものじゃなかったと思うよ。


男は出産の苦しさを知らないから、生命の誕生を描いても、どこか寓話的になる。

小説家、深沢七郎は書いている。
「私は屁と同じ作用で生まれてきた」

幻想小説家、夢野久作はもっと非道い
「胎児よ胎児 なぜ動く
 母親の心がわかって怖ろしいのか」



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私の場合
人並み以上に小柄な母は、私を4,000グラムで産んだ。
さぞ、難産だったことだろう。

そして私は、町のベビーコンクールで優勝した。
私は「完璧」な赤ちゃんだった。

不摂生が祟って腎臓を病み、身体にメスを入れた時、母がぼそりと言った。
「傷ひとつなく産んでやったのに……」

だから、私は思っている
──私は「ことん」と生まれたのでも、「屁」のように生まれたのでもない。

一生懸命、産んでもらった。


今日、帰省を終えて関東に戻った。
夕刻の風はいくらか涼しさを増したようだ。




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フラミンゴ・ヨガ
がにまたのポーズ




ファイミル・アイコンのモデル
サフォーク君

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TVアニメ『ジャングル大帝』
人間の言葉を話せる白い獅子、レオは訴える。
「動物と人間が共存できる日、それは世界中から動物園がなくなる日──」

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動物園で最もよく見かける光景、それは動物が尻を向けて寝ている姿───



こんなのや



こんなの


人間なんて相手にしたくないのだ。
なぜ、こんなヤツらの見せ物にならなきゃいけないのだ。


でも……

木登りできるスペースがあるだけ、少しはマシ?


そもそも、動物園は誰のためにあるのか?
(種の保護、学術的意義は除く)
人間のためか、動物のためか?

そりゃ人間でしょ?
人間のお客さんのために作ったんだから。
第一、入園料を稼がなきゃ経営が成り立たない。
ならば、お客さまを呼び込むために見せ物を派手にしなきゃ

とは、考えていない。
旭山動物園を見ていて、そう思う。



全ては私の想像である。

旭山動物園のポリシー、
それは、
人間に面白く見せる事ではない
動物たちがいかに面白く暮らせるかだ。

動物園はそこに暮らす動物たちのものだ。

それを感じたのは、この2点



カバ園の隣に小さなスペ一スでカラスのコーナー。
殺処分になりかけたカラスを保護している。

誰がここまで来てカラスなんか見たがるものか。

でも、敢えて展示する。

カラスも生態系の大事な一員だと知らしめるためだ。
それは客寄せの価値とは別の価値だ。



そして

滅多に人の来ない奥まった一角。
大型草食動物の展示館を建設中だ。
そこに見学窓───覗けば、工事に勤しむ人間の姿が見える。

これはシャレでやっているのか?

違う。
動物たちの行動展示をするのなら、当然「人間」の行動展示もあっていいよね。
だっておんなじ「動物」だもの。



旭山動物園は、日本最多の入場者数がありながら、なぜか滑稽なほど質素である。

その気になればいくらでも金儲けができるはず。
施設もバンバン増やせばいい。
かつての遊具跡地だろう、まだ空きスペースはいくらもある。

しかし、もし成功に酔ってしまったら、
お金を稼ぐことを優先したら……

この動物園はポリシーを失い、
「動物の園」になろうとすることを、忘れてしまうのかも知れない。


それにしても……

年間パスポート1,000円って!?

もっと貰おうよ

価値と釣り合わなさすぎる。









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ど~ん!あざらし~




どど~ん!もう一丁!



と言うわけで、旭山動物園に行って来た。




私が子どもの頃は、広いだけの動物園だった。
子ども達の目的は、動物よりも、むしろ併設されていた遊園地。



このメインストリートの脇に大きなペンギンのプールがあった。
それは水色のペンキが塗られた浅いプールで、人間は柵越しに見下ろしていた。


それが今や

ぎゅ~ん!
空、飛んでる。


私にとっての旭山動物園の記憶は三十数年前で途切れていた。
それがいつの間にか、夢の動物園へと変貌した。

このペンギン、冬には園内を散歩するんだぜ。
しゃがんで見てたら、目の前50センチをトコトコ通り過ぎるんだ。
こういうヤツらが



旭山動物園の「行動展示」
動物園の常識を変えた。


そこは動物が、これまでの監獄式の陳列と違い、
その動物らしく行動出来るよう、工夫をこらされた場所───


だから、動物たちも、無理に人間の見せ物になる必要はない。

白熊館のアザラシドーム

アザラシは氷の下から頭を出したところを白熊に襲われる。
それを追体験しようという仕掛け。
列に並んで入ってみた。

結果───

白熊は無関心。
遠くにお尻が見えただけ


それでいいのだ
何でも人間さまの思い通りになると思ったら大間違い。

もし、ドームの周りにエサを撒いたら、白熊が寄ってきてお客は大喜びかも知れない。
でも、それをやったら、動物園は単なる見せ物小屋となる。



私の幼少期、動物と遊具とどっちがメインか分からないような施設、閉園の危機に喘いでいた動物園が、何故これほどの支持を得られることとなったのか?

ここを訪ねて、私なりに感じた、この動物園のポリシー

それは次回に───








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