近頃、取り沙汰されなくなったのは、これが常態化したからである。
先日、電車の中で眉毛を抜いている若い女性を見た。
鏡を食い入るように見つめ、ピンセットで熱心に眉毛を引っ張っている。
まさに周りに人無きが如し。当然座り方にも緊張感はない。どでんと座って膝が緩んでいる。
さすがに気持ち悪いと思った。
もっとも、周りにどう思われるかなど考える神経もないから、こんなことをする
――では、それで整えた眉毛は誰に見せるのだろう、とも思う。
こんな本がある

澤口さんは、今やフジテレビ『ホンマでっかTV』でお馴染みの脳科学者
あるいはこんな本

正高さんは類人猿の研究者
現在の若者たちの 姿を専門分野――つまりサルの生態と見立てて行動様式を分析した。
これらの本、ひと言で要約すると
(あくまでも私の解釈ですが)――
人間は人間に生まれたから人間に育つのではない。
成長過程で社会性を習得し、
「頑張って」人間になる
つまり、社会性を身に付けられなかった――人間に成れなかったサルは、私的空間と公的空間の違いを認識出来ない。
だから公衆の面前で眉毛を抜いたり出来るのである。
もっとも、私に言わせれば、科学というのはー点集中の深さ鋭さはあるが、茫漠とした「人間なるもの」の全てを解き明かせるものではない。
この手の本には「最近の若い者は……」的な、エジプト文明以来のジェネレーションギャップもありそうな気がする。
(古代エジプト文字を解明したら「最近の若い者は云々……」と書いてあった、というエピソードがある)
澤口さんをテレビで観ていると、決して社会性が豊かとも思えない。むしろ個性の人である。
ある分野の科学的な知見に基づくとこうだ!と受けとるべきであり、
「ホンマでっか!?」と知識を楽しむくらいでいいのだろう。
とはいえ、公衆の面前で眉毛を抜くのは、やっぱりあんまりだと思う。
私の――人それぞれが持つ――美意識として、考えられない。
これは結局、「公と私」の概念の欠如だと思う。
妙齢のご婦人が部屋でおならをする分には構わない。心を許した彼氏の前なら、二人だけの感性だ。
でも、彼氏の前だけ気取って見せて、他の人間は犬猫以下、というのは、やっぱり社会性が壊れているとしか思えない。
昔、自分の部屋以外は社会、という信念で、自室を出る時は常に衣服を正す、という人がいたらしい。
映画評論家、小森和子さん(小森のおばちゃま)の母親は、夫と顔を合わせる時は常に化粧をしていた――つまり、旦那は奥さんの素顔を見たことがない
ここまでいくと公私のバランスが公に傾き過ぎていて、居心地が悪そうである。
公私混同で言えば、私はネットで繰り広げられている匿名の世界に、異常なものを感じている。
ニコ生でprediaのアキバカルチャーズを見ていた時のこと――
ニコ生のコメントは匿名の世界、みんな勝手なことを書く。
でも、それぞれに個性が出るから、同じ人が書いてるな、という想像がつく。
ホントに予備知識がなくて、「今映った人は誰?」的な質問をする人。これに丁寧に回答する熱心なファンがいる。
今日のダンスの出来はどうの、ボーカルの声がどうの、とツウな意見を書きたがる人もいる。
とても彼女たちに見せられないような悪口雑言を吐くヤツがいる。中傷を書きたくて見ているのだろう。
その中に「ぶったん」「ぶったん」と しつこく連呼するヤツがいた。ぶったんというのは、あかねんがMCで笑いをとった ゆったんネタで、この時点ではすでに死語
――これを面白いと思って連呼するのは、うんこ、うんこと連呼して喜ぶ子供と、知性において同レベル
「コイツ、バカだな」と思った。
もし、人前であれば、こんなことは言えない。顔が見えないから何を言ってもいいと思っている。自分の書いた文字が画面に流れる、これが公の物である、という意識がない。
ニコ生チャリチャン(競輪の予想番組)に めーしゃんがゲスト出演した時、
予想に迷い「1-4にしようかな…」と言う めーしゃんに「1-4がイーヨ!イチヨンイチヨン」と書いたのは私。
この予想が外れた後、「1-4と言ったヤツ、出禁」「1-4のヤツ出ていけ」と執拗にコメントされた。
ギャンブルに興味もないのにふざけてコメントした私は悪い。だが、このしつこい敵意は何だろうと思った。
これが公開番組の会場であれば、私は「1-4、イーヨ!」とふざけなかっただろう。そして匿名氏も「お前、出ていけ!」と目を剥き、唾を飛ばして罵倒するようなこともしなかっただろう。
顔が見えないから、匿名だからこそ剥き出しになる悪意
公と私が狂っている
顔が見えないから何を言ってもいい、とはならない。
その言葉は公の画像に流されているのだ。
公と私はどのように分ければ良いのか?
考え方は簡単だ。どちらかを決めれば、残りがもう一方だ。
では、どちらを優先するか――
私は「私」だと思う。
公とは気を使い窮屈なもの、これを優先すると疲れてしまう。
まず「私」になれる場所を確保すること。
何をやってもいい、何を言ってもいい、自分だけの――あるいは自分と親しい者だけの――世界。
だらし無いカッコも稚拙な悪口雑言も、この世界で済ませてしまう。
それ以外は「公」の世界。
そこには他者がいる。
緊張して、調和を図らなければならない。
電車の中はもちろんとして、部屋でパソコンを開いていてもネットで繋がっていれば、そこは「公」の世界。SNSも、もちろん「公」である。
窮屈だ
だから、「私」こそ大切になる
居心地の良い「私」が確保されていればこそ、
「公」の場で頑張って「人間=社会的動物」でいることが出来る。
公の場ではニコニコでいる
それが「より良い人間」=「大人」である。
ということを目標にしたい、という話でした。
長い記事になったなぁ……