「見たらびっくりすると思うけれど、頑張ってね(笑)」

 

そう言われたのが、3月下旬の新年度準備で出勤した日のことであった。

手元には校務分掌表…しかし、何をどう見たら良いかなんて正直よくわからない。

でも、そんな一年目の教員でもわかることはあった。

 

「あっ、担任だ…」

 

そう、タンジェントは一年目から担任であったのである。

実は母校ではちょうど教員の入れ替わりがあり、タンジェントは5人の同期に恵まれた。

2018年度現在でも、これだけ同期が多い世代はいない、ある意味黄金世代なのである。

しかも、年齢も教科も全てバラバラ、そのような中、タンジェントは1年目から担任だったのである。

 

実は、その約1カ月前、タンジェントは母校の一般入試のお手伝いをしていた。新任で都合がつく場合、一般入試をお手伝いする文化(お手伝いといっても、きちんと報酬はつくが)が母校にはあった。

その日の感じだと、実は担任を持つことは無さそうな雰囲気で、正直タンジェントも安心をしきっていたのである。

 

そこから、タンジェントは右も左もわからず、1年B組の担任になるべく準備を進めることとなる。

そして、迎えた4月1日、辞令交付の日である。

母校であるタンジェントは辞令交付を終えて、お世話になっていた先生方に挨拶回り、そして部活の顧問の先生にも挨拶をすると、その日に飲み会に誘っていただくこととなる。

しかし、ある意味タンジェントの教員生活を象徴するような一日、否、二日となる。

その飲み会は盛り上がりまくった(笑)そして、解散は午前様。実は、ギリギリ終電にも間に合う感じであった。

ただ、その時タンジェントは思った。このまま歩いて帰ろうと。

これからの教員生活で、何かあるかわからない。もしかしたら、大震災などがあり、交通機関が麻痺することもあるだろう。

そこで、自宅までの約20キロを歩いたのである。到着したのは、もう空け方であった。ただ、その時タンジェントは思ったのである。

これくらいできなければ、教員なんてつとまらないと!意味がわからない…そう思う人がほとんどだろう。でも、タンジェントはそこにやるとげる意味を見いだしたのである。

 

そこから、タンジェントの激動の教員生活がスタートする。

教員生活になってもうけたルールは2つ!

 

①毎朝、必ず職場で一番に出勤する

②毎月2回、学級通信を発行する

 

この2つであった。①は正直自分の勉強の甘さに気づいていたため、毎朝朝会までの約2時間弱を勉強などに充てることができれば、チリも積もればでいずれはまともな教員になれるだろうと。

②は、担任をやる上で、何かしら自分に課したいと考えた時に、学級通信を発行することにより、少しでも生徒並びに保護者との交流の

機会を増やしたかったからである。

 

さて、そんなタンジェントであるが、本当に周りの先生方に助けられまくった一年目であった。

むしろ、10年目を迎える現在でも助けられまくっていることに変わりはないが、隣の席の先生、教科の先輩、部活の先生などとにかく色々な方に迷惑をかけた。

1年目は、2年生の日本史を3単位×5クラス、そしてそれに加えて柔道部顧問、また校務分掌では入試広報・環境整備・校友・国際教育と4つの分掌を担当していた。ただ、分掌業務は正直ただ覚えるだけ…特に入試広報はわからないながらも学校の営業活動に従事していた。校友はいわゆる同窓会で、母校の人間として同窓会の業務に従事していた。

そして、国際教育にいたっては、英検3級のタンジェントが何ができるの?とものすごく不安であったが、当時の国際教育の主任のはからいで、実は1年間にした仕事は2つだけであった。それが学内の留学生との交流会のお菓子&飲み物の買い出しと、姉妹校の生徒たちとディズニーランドに行っただけである。

では、一年目の校務分掌で何が一番印象にあるのか?それは環境整備である。実は環境整備のメンバーが、地歴科の先輩おふたりと同期の先生ひとりの4名で構成されていた。そして、その地歴科の先輩のひとことで、毎日19:00の最終下校時刻に校内を回ることをしていたのである。

最初は当番制であったが、そういうものも当然形骸化するもので…自分で言うのもなんだが生真面目なタンジェントは1年間ほぼ回り続けた。しかし、この経験は最終下校時刻まで残って部活を頑張っている生徒とのコミュニケーションはもちろん、本当に環境整備へとつながり、我ながら「頑張ったなぁ」と思える仕事のひとつである。

 

また、日本史の授業においては、2年間の講師経験が多少なりとも活き、自転車操業ながらも楽しみつつ授業をすることができた。

ただ、正直どうしてもうまくいかないクラスが1クラスあった。その1クラスは10年経つ今でも、最も苦しいクラスであった。個々人は決して悪くない、しかし全くクラスとしてのまとまりがない。正直、授業をするのが嫌になる日もあった。

そして、部活においても自分が所属していた柔道部の顧問になれたものの、自分の立ち位置がよくわからないまま日々を過ごすこととなった。絶対的な指導者である恩師がいるため、自分が何をすべきかが分からず、ただ一生懸命、生徒と練習をしたりするしかなかった。

加えて、1年目私の週休日は土曜日であったが、土曜日は何かと出勤することが多い。

そんな中、1年目の10月、一日も休みがない、つまり30連勤を超え、授業の途中に立ちくらみをすることがあった。

 

今思えば、ただ一生懸命、そう何をではなく、目の前のことをやるためにただ一生懸命一日一日を過ごしていただけなのであった。

 

そんな中、3学期になり柔道部の恩師から「柔道部の顧問を辞めろ」と言われた。なぜかわからなかった。ものすごく怒られ、しかられ、自分がなんでこうなのかわからなくなっていった。

でも、今だからこそ言えるが、この時柔道部を離れていなければ、きっとタンジェントは「何も考えずにただ一生懸命」の教員になっていたに違いないと断言できる。きっと恩師はわかっていたのだろう。

そして、その恩師のもとを離れ、タンジェントはそこから新しい部活(歴史社会研究会)を立ちあげ、また野球部の顧問となり、校務分掌でも入試広報をメインに、そして何より教科指導と生徒指導に“目的”をもって関わるようになる。

 

この一年目に、恩師から怒られて柔道部を離れたこと、むしろ恩師の側を離れたことが、自分自身自立への第一歩なんだと今だから言える。

 

そして、そんな苦しい一年目、最もタンジェントを支えてくれたのはクラスの生徒たちであった。

合唱コンクールでは見事優勝、また一年目のタンジェントに色々なことを教えてくれる素敵な生徒たちであった。

ただ、彼らとの突然の別れが待っているとは思いもよらなかった。

 

次年度の校務分掌発表当日、タンジェントは「1年H組」の担任をすることになっていた。つまり、留年である。

そして、もちろん部活も柔道部を離れ、野球部と歴史社会研究会、そして、校務分掌も入試広報・図書・同窓会と…

一年目から大きく変わる、そんな2年目を迎えることになるのである。

 

しかし、タンジェントは若かった。この一年目を完全に引きずり、2年目に突入することとなる。

それが本当に1年H組の生徒たちに申し訳ないことをすることになるのだが…