私が密偵の仕事に就く時に店主様が「辛くなるから忘れてしまいなさい」と暗示をかけたからだ。どうせ二度と会えないならばと受け入れたことを後悔しても遅い。あの時の私には必要な処置だった。店主様なりに私を気遣ってくださったのだと納得はしたけれど、心に刺さった小さな棘だ。

 

 

ライザール様を忘れてしまうなんて・・・今ならきっとそんな選択はできないだろうから。思い出が欠落していることがこれほど人を不安にさせるなんてあの時の私にはわからなかったことだった。ずっと失ってしまってもかまわない刹那の出会いと別れしかなかった。

 

 

そんな生き方をしてきた私がこの国の王であるライザール様と出会ってしまった。あの出会いは演出されたもので私の身分も名前も嘘、思惑だってあったけれど彼への想いの全てが偽りだったわけではない。

 

 

どうしようもないほど惹かれてしまったから彼の妻として初夜を迎えた。あの夜私はライザール様に問われるまま全てを打ち明けた。少しでも私という女を知って欲しかった。そして密偵であることも本名も告白したが、ライザール様はただ「そうか」とおっしゃられて私を抱かれた。あの時あの方が何を考えておられたのかはわからないしそれは今も変わらずだった。ライザール様が心を読ませないようにしているからだ。長く宮中にいて自ずとそうなったのか、元の性格ゆえなのかはわからない。

 

 

そんな方と夫婦になって先が見えない不安は常にあり、いつ見限られてしまうかもわからない。私は求めても手に入らない幻影を追いかけてるのだろうか?

 

 

絆がないからより不安になってしまうのかもしれない。まさに仮面夫婦だわ。