黒い絹の布で目を覆われるといつになく緊張を感じた。
だがこう見えても暗闇でも素早く動けるように訓練はしていたのでさほど不安はなかった。
彼らの醸し出す仄かな香の名残や衣擦れの音や僅かな気配さえ感じ取ることは容易かった。
「シリーンこっちだよ」
「白娘子・・・私はここです」
同時に手を叩き惑わすように私を呼ぶ希驪さまの気配。
密やかな微笑みを湛えた皇驪さまの気配。
追う私と虎視眈々と私を誘惑しようと手ぐすねを引く彼らのどちらが果たして本当の獲物なのだろうか。
もし皇驪さまを捕まえれば私は金梅酒を手に入れることができるけれど、それは本当に私が真に望むものではなかった。
密偵としては正解。
だけど一人の恋する女としてそれはあまりにも・・・・
以前なら平気だったことも今となってはあまりにも・・・
お願いだから私を助けて欲しかった。
私が唯一心から望むあの方に
→ライザールさま
!!
その時、彼の気配を感じた。ここにいるはずのない方だったが、あの方の気配を間違えることはなかった。
だから迷うことなく走り抜け思い切りあの方の胸に飛び込む。
両の掌で受け止めた固い石の感触と厚い胸板と逞しい腕、誘惑するような仄かなムスクの匂い、もはや間違いなかった。
「捕まえたわ」
息を弾ませてそう言ったら、抱きしめられて唇を奪われた。
もう何度も口づけをかわしたから。
目隠しをしてても貴方が誰なのかわかったことが嬉しくて切なくて、私はそのまま彼に身を預けた。
たとえ金梅酒が手に入れられなかったとしても構わなかった。
そんな私はやはり密偵としては失格なのかもしれない。
だけどたとえ密偵でいられなかったとしても
私の身も心も貴方だけのものです
私が唯一運命を共にしたいのは貴方だけです
「・・・・ライザールさま」
!!
私の名を呼ぶシリーンのしなやかな身体を抱きしめる。
少し前から鱗帝国の兄弟皇子らと戯れるかの国の衣装を纏ったシリーンを見ていた。
国益を損ねないという条件を出したがやはり密偵であることは抵抗があった。
彼女に群がる男達がシリーンを追い求めているのは承知していたが、彼女を信頼していたからはやる気持ちを必死に押しとどめて泰然とした己を装っていたにすぎない。
だがシリーンはあまりにも無防備だった。彼らの手管に簡単に絡め取られそうでだからこそ目が離せなかったのだが。
戯れなどとうそぶく彼らの真剣な眼差しに込められた熱い感情は己のものと同等だった。
彼女が褒美のキスを与えるのが誰なのか試せばいい、と冷酷な心の声に従うか否か葛藤したライザールだったが、やはりやせ我慢は限界なようだった。
再会してからこっちシリーンの見せてくれる笑顔に嘘偽りはなかった。
心からの信頼を感じたからこそ今まで手を出すことに躊躇いが生じたのだから。
だからそんな無垢な彼女の気持ちを試すべきではないとの結論に至ったライザールは本能のまま動き、そしてそんな彼の元へとまっすぐと駆けてくる彼女を受け止めたのである。
互いを想いあい求め合う者達を阻むことができる者はこの場にはいなかった。
主催者であり威風堂々としたライザールの登場に場の空気が一変したことを瞬時に察した皇驪と希驪はその場に畏まり立ち尽くすことしかできなかった。
婚約者の立場とはいえあのような威圧感のある男に無邪気にじゃれることができるシリーンもまた只者ではなかった。
獲物に狙いを定めた肉食獣のような琥珀色の双眸を湛えたライザール王もまた満更でもないことは一目瞭然だった。
形だけの婚約者の立場ではないことも・・・
「痛ってえ・・・なんだ・・・これ・・・はは・・そうかこれが」
眉をしかめた希驪は無性に疼く己の胸を押さえた。
気に入った女の子を兄のためと称して差し出した時は我慢している自分をどこか誇りに思っていた。
だけど彼女が見つめるのは他の男でこう兄も失恋するかもと思えばどこかホッとする自分がいた。嫉妬なんて初めてだった。
これまで女の子を口説けなかったことはなかったし恋愛の達人だと思ってきたのに。
本気の恋がこんなに痛みや苦しみをもたらすものだとは誰も教えてくれなかった。
だから彼女が心から慕うライザールもまた彼女を心から愛して想っているのだと思えば失恋を受け入れるしかないようだった。
それは希驪が初めて感じた痛みで、その痛みを教えてくれた彼女を当分忘れられそうになかった。
その瞬間、希驪の不実に涙を流す美蘭の面影が心に浮かび初めて彼女に与えた苦しみがわかった気がした。
(そっか・・・俺気づかなくてゴメンな・・君にひどいことしちゃったね・・美蘭ちゃん)
「兄の婚約者」だから、とか「妹みたいだから」とか「大切だから」とか言い訳を並べて「私だけを見て欲しい」と望む彼女から目をそむけたのは他でもない俺だった。
だが兄が恋したシリーンに恋した時はそんなことで諦めたいとは思わなかった。むしろ障害があればあるほど心も燃えた。
これまで本気の想いに向き合おうとしなかったのは傷つくのが怖くて逃げだしたかったから。
「俺に大切なこと教えてくれてありがとう・・・シリーン」
どこかふっきれたような希驪を優しく見守る皇驪がしみじみとした面持ちで言った。
「・・・恋っていいものですね。希驪・・・私も、恋をしてみたくなりました。もちろん現実の乙女とですよ。きっとどこかに私だけを愛してくれる女性がいると信じましょう」
!?
「本気なのか!?こう兄!・・やっぱシリーンは凄腕の密偵だったんだな」
荒療治ともいうべく方法が功を奏したのだろうか、どこか晴れ晴れとした面持ちの皇驪の双眸は輝いていた。
皇驪の全ての理想の顕現であったシリーンを失ってしまったが、二次元の娘ではこの胸の痛みも喪失も決してもたらさなかっただろうことはわかった。
挫折したからこそ得られることもあるようだ。それを知れたことが殊の外嬉しかった。
彼女を想ったことはけっして無駄ではなかった。
真の愛のもたらす強さに心が満たされて、失恋したばかりだというのに惜しくなかった。
むしろ二人の行く末の安寧を心から願う気持ちになったほどである。
世継ぎである以上いずれかの結婚は避けられなかったが、せめて相手は選びたい。
これまで母である皇后との軋轢を恐れるあまり避けていたが、皇子として息子として今一度母である彼女と向き合ってみよう。
美蘭の気持ちを知りながらその苦悩を見て見ぬふりをしてきたが、せめてもの償いに彼女が自由に想いを重ねることができるように、そして後宮に幽閉された姉共々解放するための助力も惜しまないつもりだ。
「ありがとうございます、シリーン。おかげで目が覚めました」
ただ漠然とした日々を過ごし与えられた己の運命に身を任せてきた皇驪だったがこの灼熱のシャナーサ王国に来てシリーンというオアシスで束の間心を癒されたおかげで大切なことを悟るに至ったのであった。
こうして希驪の依頼は完遂され、後日ライザールとシリーンの婚約の記念に鱗帝国の皇帝の名代である皇驪から金梅酒が贈られたのだった。
2020年1月17日投稿