蛇香のライラ ライザール/ルト 王の密偵

 

「すまなかった」と抱きしめるライザールの温もりに心がわざめくシリーン。

 

何に対する謝罪なのかと辛辣に振る舞いながらもその腕の温もりを失いたくないと思ってしまう。

 

一度は愛した男だった。

 

店主の暗示などとうに関係なく開き直ってきただけだ。

利用されていることはわかっていたがたとえどれだけ汚れても必要だと言ってくれる店主だけが心の拠り所となっていた。

 

だがライザールの中に、汚らわしい欲望だけではなくまだ彼女に対する未練があることに動揺したシリーンは拒むことができず彼女もまた心境の変化が訪れる。

 

彼女もまた「ルト」に対する愛情を消し去ることはできなかった。

心と体がばらばらで葛藤した末の邂逅だった。

 

それでも「無垢」を求めるライザールに対する反発もあって素直になれなかったのだ。

 

変わってしまった私では愛されないのかと苦しむシリーンはその苛立ちをライザールにぶつけるしかなかった。

 

そう思えば散々遊んでいたのに平然と忘れたふりして彼に相応しい「特別」な女にだけ愛を囁く男に対するいら立ちがより募った。

 

身勝手なのはお互い様だったことに気づいた二人の関係は落ち着きを取り戻してゆく。

 

ライザールはシリーンの変化を受け入れて尚まだ彼女を愛せるのか自問自答した結果、やはり俺(私)には彼女が必要だと実感する。

 

常に人を食ったような不敵な笑みを浮かべ、強引で傲慢なのがはなについたライザールの殊勝な態度にシリーンもまた彼を受け入れてもよいと頑なだった気持ちをほぐしてゆく。

 

互いの心境の変化を互いに感じてあらためて向き合った二人は過去の自分と決別して新たな関係を模索することに。

 

なにもシリーンの外見だけが気に入ったわけではない。

見た目が綺麗な女などこれまでいくらでもいたが、シリーンの場合美貌もさることながら内面から生じる彼女の美しさがあった。

 

確かに無垢ではなくなったものの、だからといって彼女の全てが損なわれたわけではなかった。

 

俺がルトのままで居続けることはなく「王としての風格」を身に着けるためにあらゆる困難を打破してきたように、今のしたたかなシリーンもまた同様であるのだろう。密偵としての覚悟を決めた結果得たものだ。

 

環境が人に影響を及ぼすこともあるだろうが、俺の中でルトだった自分が消えたわけではない。だからこそ周囲を偽り敵だらけの王宮内で素のままの自分を受け入れてくれたシリーンが懐かしかったのだと思う。だから喜びも一入だった。

 

それはシリーンも同じだったのではないだろうか。

人生の中のほんの僅かなひと時一か月にも満たない「無垢」な時間を過ごした彼女の存在は俺の心の支えだったことは確かだ。

 

あれから10年の歳月が経ち俺たちは互いに変わってしまった。

それでもまだ俺は彼女を忘れられなかったし「無垢な少女」のままのシリーンを想い求めていたように思う。

 

だが彼女は修羅場を超えこうしてまた俺の前に成熟した女として現れたのだ。

 

俺はその変化を受け入れようと思う。

 

シリーンは気づく。彼女の変化をライザールが受け入れたことを。そしてまだ彼女を愛しているのだということを。

 

悔恨の抱擁の後、あれから一度も彼女に触れてこないライザールの双眸にはすでに彼女を苛むものは感じなかった。包容力のある男に心が揺れる。

 

王の仮面を被った彼ではない。優しくて頼もしかったルトの笑顔が大好きだった。

 

追い求めても追い求めてもそれはいつも夢でしかなかった。

目覚めれば辛くて厳しい現実が待っていていつの間にか彼を思い出すことはなくなっていた。

 

けれど忘れたわけではなかった。

 

シリーンは葛藤していた。病気の店主のために「血」が必要だったがライザールは王ではないのだ。本物の王様の血を持ち帰らなければ・・・っ

 

そう思うのに今や囚われの身だった。

 

・・・身体だけではなく心もまた彼に捕らわれていた

 

だが血を求める行為をライザールが許さないだろうことはシリーンにもわかっていた。

 

密偵として彼を出し抜かなければならないのに・・・・

 

心を偽り男を騙すことなど水を得た魚の如く散々してきたことだった。

 

なのに今更罪悪感を覚えるなんて・・・・

 

ライザールの真摯な眼差しがむき出しになった軟な心に刺さる。

 

私はもう二度と彼を偽ることはできない・・・

ごめんなさい・・・店主さま・・・

 

涙が溢れてしまう。

 

けれどどちらか一人を選ばなくてはならなかった。

 

愚かだと思う。宮殿内で手当たり次第に男たちに抱かれた私を匿う王を口さがない者たちは失笑しているだろうに。

 

もう婚約者のレイラには戻れない。私はただの密偵で卑しい女で王の足を引っ張る存在でしかなかった。

 

それどころかこの国の王族を狙う敵対者でしかないのに・・・

 

敵だらけの王宮で私を匿うライザールの背を虎視眈々と狙っていた自分に嫌気がさす

 

いつ愛想を尽かされても文句もいえない身だった。

 

なのに貴方は優しくて温かくて・・・憎むことも嫌いになることもできなかった

 

たとえ恩のある店主様を裏切ることになったとしても・・

 

こんな私を貴方が必要としてくれるなら・・・貴女だけの女になりたい

 

 

葛藤するシリーンに対しライザールは真剣な眼差しで言った。

 

「お前が嫌なら二度と触れない。だが俺はまだお前を愛している。できることなら身も心も欲しい。俺も存分に与えてやる」

 

それは精一杯の愛の告白だった。

 

奪うのではなく懇願し、さらに与えるという言葉の真意を試すかのようにライザールを見つめ返すシリーンの双眸に浮かぶのはまぎれもない思慕だった。

 

不思議と嘘だとは思わなかった。

そもそも確かにライザールが初めての相手だったとはいえ、その後身を持ち崩してしまったのは自分で決めてしたことだった。

 

目的は店主のためであっても手段は店主に強要されたわけでもない。

 

彼ともほんのわずかなすれ違いが生じて人生が別れただけだった。

 

再会できるはずもなかった相手と再会して「運命」を感じて舞い上がっていた矢先、奈落に突き落とされたからより傷ついてしまった。

 

もはや彼とは二度と会えない、きっと一緒になる運命ではなかったのだと思い知らされた。立ち直る間もなく店主に抱かれ追い打ちをかけるようにヘナタトゥーに抗えなかったジェミルに抱かれ自分を見失ってしまった。

 

――シリーンごめん・・俺そんなつもりじゃ・・

 

最後に見たのは傷ついたジェミルの顔だった。

 

「私に触らないで!!出て行って!!」

 

弟のように思っていた彼だけは誘惑しまいと決めていたのに・・・

どうせ彼も同じだって囁く心の声に必死に抗っていたけど結局はお互いに欲望に流されてしまったっけ。

 

それからは皆が欲望の眼差しを向け手を伸ばしてくる悪夢に憑りつかれてしまった。

 

だがこの男はこんなに堕ちた女をまだ欲しいという。

 

偽りのない力強く優しい眼差し、記憶の彼方にある大切だった人と同じ・・

 

せめてもう一度だけ信じたかった。

 

彼は闇を払い光の当たる場所に私を導いてくれる

 

そうよ・・・だって彼はライラ・ヌールだもの

 

奪うだけじゃない同じだけ施してくれる私たちの救世主

 

「・・・・ルト・・・・会いたかった」

 

私の大切な人

 

告白した途端、逞しい彼の腕に抱きしめられた。

 

互いの心音が重なり生きている実感を痛い程感じた。

頬に触れた大きな掌の感触に包まれうっとりと目を閉じるとそっと口づけられた。

 

あの時とは違う優しく穏やかな接吻。

身体の奥から火照る感覚が押し寄せてきて・・・

 

私たちは久しぶりにまた同じ熱に酔いしれた。

何度も気づかわれてしまい気恥ずかしさすらあった。

 

欲望だけのものとはまるで違う、体中が心臓になったみたいに脈打っていて満たされていくのがわかった。

 

 

これから私たちがどうなるかはわからない。

けれど一つだけはっきりしていること

 

私はもう迷わないしこの手を振りほどかない

 

使命よりも大切な相手を見つけてしまったのだから

 

 

 

その頃、某所にて

 

「あの娘たちは戻らない・・・か。・・・そろそろ潮時かな」

 

もはや利用価値はなかったが、めずらしく執着していた人形だったから少しだけ名残惜しかった。

 

追いかけた彼女を慕う人形も然り

 

 

――だから解放することにしよう人形達が完全に壊れてしまう前に

 

暮れなずむ街を一瞥した店主は夜の帳へと消えて行った。