立つ鳥跡を濁さずとばかりに几帳面な新らしく、しっかりと食後の後片付けをするのを見守った壱哉は、すっかり身支度を整えた新を伴い今朝まで世話になったアパートを後にした。
この世界に降り立ってからちょうど七日目であり、うら盆会であることを踏まえれば、
今日が特別な日であることは自ずと知れた。
(・・母さん・・・俺はずっと貴女の生き方が許せなかった。だが今なら少しは貴女を理解できる。だからっ・・できることなら俺が、俺の大切な人達を守れるように見守っていてくれ・・・)
瞼の母へ心の中で静かに手を合わせた壱哉は、朝もやに包まれた不気味なほど静まり返った表を見やった。
耳を澄ませても鳥の音はもちろん、昨日までかしましいほど聞こえていた蝉の鳴く音すら聞こえなかった。
(思ったとおりだ・・役割を終えた他の連中は退場したようだな。今この世界に存在しているのは俺達三人とおそらく樋口だけだろう)
すっかり人気の絶え静まり返った周囲に憚ることなく金属の音を響かせながら外階段を下り、朝もやのけぶる地面へと降り立つと、思った通りそこには送迎用の黒塗りの車と共に、いつもと変わらぬ風情の吉岡の姿があった。
「・・おはようございます、壱哉様、清水さん、心の準備はよろしいですか?」
一週間ぶりに見る吉岡の姿は、やはりかすかに憔悴しているように伺えたが、秘書の鑑である気丈な吉岡らしく一切の繰り言もなく頼もしい限りだった。
「ああ、・・・俺の方は大丈夫だが、新・・・お前は大丈夫か?」
確かめるように問いかけると、やはり新もまた気おくれした様子もなく落ち着いた面持ちで頷きかえした。
吉岡
『・・・それでは壱哉様、ご命令ください。どちらまで行かれますか?』
さて、なんて応えたものかな
★ビル建設現場だ
「それは無論、俺と新が初めて出会った始まりの場所・・・あの場所をおいて他にはない」
吉岡の運転する快適な車の後部座席に共に乗り込み、ゆったりと足を組む壱哉の顔を見上げた新は不安げな面持ちで尋ねた。
「聞いてもいいか?黒崎さん・そこに何があるんだ?・・・勝算はあんのか?」
夕べの壱哉の様子といい、今朝から自分自身なにか大きな変化が訪れそうな予感があった新だったが、全てのカギを握る壱哉が多くを語らない以上、実のところ今日これから何が起きるのかははっきりとはわからなかった。
「・・それは行ってからのお楽しみだ。俺を信じろ・・新」
「・・・うん、俺・・・黒崎さんのこと信じるっ」
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覚悟を決めて握りしめた新の拳の上に力付けるかのように置かれた壱哉の大きな掌が包み込むと、温もりを確かめるかのように強張りを解いた新の手がきゅっと握り返した。
互いの脈打つ掌をしっかりと繋ぎ合わせ、決意を露わにした壱哉と新の道行は結末へと向かい、押し寄せる大量のもやを物ともせずに車は約束の場所へと向けひた走ったのだった。
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一方、まんじりともせずに夜を明かした樋口もまた張りつめた空気を肌で感じながら朝から妙な胸騒ぎを感じていた。
結局昨日のうちに壱哉ともう一度話すことはできなかったが、新少年の言葉が耳に残って離れなかったのだ。
「・・・黒崎・・このカードはどういう意味なんだよっ・・・俺に伝えたかったっことって・・いったいなんなんだ?」
焦燥感にかられるように、答えを求めながら指定された場所へ車で向かう樋口のポケットには壱哉から渡されたメッセージカードが忍ばせてあったのだった。
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「ほら、ついたぞ・・新」
「・・・ここって俺んバイト先・・だよな?・・・なんでここ?」
壱哉が新を伴いやってきたのは、新のバイト先である【ビル建設現場】だった。
朝もやに覆われているせいか、馴染んだ職場だというのにまるで違う場所のようだった。
いつもなら現場主任を始め早番の者達の姿がちらほら見受けられたが、休みのためか辺りは不気味なほど静まり返っており、人っ子一人の姿もなかった。
作業着姿だからかより違和感を覚えながら困惑する新に壱哉が確認するように尋ねた。
「・・・新、樋口と会い話を聞いたのならばここが奴にとってどんな場所だか知っているな?」
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やはり壱哉もまたこの場所の意味を知っていたことに切なさを噛みしめながら、新は躊躇いがちに頷きかえした。
「うん・・・知ってる。ここは樋口さんが・・『夢を失った場所』・・・だろ?」
同情からくるのだろう新の感傷をすばやく察知したのか理解を示すように壱哉は重々しく頷くと続けた。
「・・そうだ。そしてここは俺とお前が出会った運命の場所でもある・・・そうだな?」
『運命』という言葉に気恥ずかしさを覚えながらも、確かにここで起きた『工具箱落下事故』が壱哉と自分を引き合わせたのだと思えば、妙な縁を感じずにはいられなかった。
「俺達が立つこの場所こそかつて【樋口花壇】があった場所だった。ここは肥沃な土壌に恵まれた土地であり、俺と樋口との友情を考えればこの場所をおいてないと思った」
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壱哉の言葉に新は驚いて足元に広がる薔薇園の名残すら伺えない地面を悲しげにみつめた。
「・・・さらに吉岡を閉じ込めていた『茨の檻』を具現化したのがネピリムの仕業ではなく俺の妄執だったことだ。力が安定していなかったとはいえ、俺と吉岡の絆があったからこそ実現できたんだと思う」
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「・・・壱哉様」
『絆』だと言ってくれた壱哉の言葉に吉岡は、穏やかな心地で過ごしたあの場所を懐かしく思馳せながら笑みを浮かべた。
「茨の檻って・・・黒崎さん!?」
吉岡の姿が見えないと思ったら知らぬ間にとんでもない事態になっていたようだったが、
当の吉岡が動じない以上、新にはそれ以上かける言葉が思い浮かばなかった。
(俺と黒崎さんの間に絆があるように、黒崎さんと吉岡さんやエプロン兄ちゃんの間にも
やっぱり絆があるって・・俺は認めたんだからなっ・・・)
「・・壱哉様、そろそろお時間のようです」
すでにこれからの段取りを承知なのか、相変わらずの穏やかな佇まいでさりげなくスケジュールを調整する有能な秘書ならではのタイミングで言葉を挟む吉岡に鷹揚に頷きかえすと、壱哉は最愛の少年へと手を差し伸べた。