樋口の言った通り、商店街をすぐ抜けた先の閑静な住宅街にメゾン××××はあった。
(まさか・・・樋口がマンション住まいとはな)
壱哉は以前何度か訪れたことのある、【樋口花壇】を脳裏に思い浮かべた。
広大な敷地のほとんどを薔薇用の畑が占め、その脇に店舗兼自宅があり、そこで樋口は昼夜問わず日々精進して新種の薔薇の開発に勤しんでいた。
『頼むよ・・黒崎っ・・俺と親父の遺志を叶えるためにはっ・・薔薇の開発にはどうしても俺にはあの場所が必要なんだ!!』
悲痛な樋口の叫び、過去の残響を振り払った壱哉は改めて樋口の置かれた状況を考えてみた。
(・・・だが樋口はここに住み、薔薇作りもやめてしまったのか)
壱哉は改めて、樋口が土地を失い『夢』が潰えてしまったのだと実感した。
以前はまるで感じなかった罪悪感が壱哉の良心を責め立てた。(-500,000)
なんだか無性に酒を飲みたい気分だった。もしかすると樋口もそうだったのかもしれない。
さらに付け加えるならばここ数日の禁欲的な生活も少なからず影響していたのだ。
壱哉は適量をたしなむ程度ではあったが、常には最高級ウイスキーを自宅で寛ぎながら楽しむことが多かった。
しかしまさかまだ若い新の部屋に酒類を持ち込むわけにはいかなかったのと、己の魂を悪魔に売り渡してまで飲みたいとは思わなかったからだ。
(とはいえ・・相手が樋口じゃあまり期待できそうにはないな)
新築らしく1LKの樋口の自宅は、個性のない画一的な部屋自体は真新しかったものの、室内はいささか散らかっていた。染みひとつない白い壁に合せたのか、白を基調とした上品だが比較的安価な家具が並び、ダイニングがないためか大型の液晶TVの前にソファベッドを置きそこで寝食を済ませているのだろう。ソファとTVの間にはニューモデルノのノートパソコンの載った楕円形の白いローテーブルがあり、周辺に趣味のプラモデルや園芸関連の雑誌が散らばっていった。どうやら樋口は娯楽を供するものに入れ込む性質らしい。
「なんだよ、独身男の部屋にしてはこれくらい普通だろう?」
常に専門業者の清掃が行き届いた居住空間に身を置く壱哉が微かに眉をしかめると、樋口は言い訳するように言いながら壱哉の視線から隠すように無造作にかき集めた雑誌をソファの横の寝ながら取れる位置に置かれたマガジンラックに戻し、ソファの上にだらしなく垂れ下がっていた白いブランケットをそそくさとたたみ、ソファの腕にかけるとエアコンをつけた。
留守にしていたせいか些か室内に熱気はこもっていたものの、すぐに爽やかな冷気が部屋を満たした。どうやらキッチンカウンターに飾られた深紅の薔薇も一役買っているようでふくいくたる芳香を放っていた。
「えっと・・ここ禁煙なんだけど、黒崎は吸わないよな?」
先ほども食後の一服をしていなかったことを思い返しながら問う樋口に壱哉は鷹揚に頷いて見せた。
「・・・よかった。えっとじゃあさ、適当に座って待っててくれよな。今、酒もってくから」
壱哉に勧めると樋口は項が暑いからか無造作なのがかえってそそる仕草で髪を後ろで一括りにゴムで結わえながらキッチンスペースに下がってしまった。
新という恋人に恵まれたおかげで身辺整理はきっちり済ませたが、これまで関係を持った者達とは寝室へと直行することが多かったし、相手が愛する者であるならばそれ以外のささやかな触れ合うひとときも楽しいものであるのだと認識を改めたが、気が置けない相手との普通の交流の経験が乏しい壱哉は、正直どこに座ればいいものか困惑した挙句、フローリングの上に敷かれた派手なワインレッドのラグマットの上はさすがに却下だったので消去法でしかたなく同系色のソファベッドの真ん中に堂々と腰を落ちつけると優美に脚を組んだのだった。
手持無沙汰だったので、なんとなく室内に転じた壱哉の視線の先、リビングに備え付けのラックの上に小さな仏壇があった。さらに仏壇の横のスペースには犬の写真と位牌があり、やはりここにも白い薔薇の花が供えられていた。
(仏壇は樋口の父親のものか・・そしてあの犬は・・サンダーか?)
壱哉の脳裏に10年前の、セピア色に彩られた雨の日の記憶がよみがえった。
冷たい土砂降りの雨の中、震えながら傘も差さずずぶ濡れで途方にくれ、俯いたまま行く当てもなくとぼとぼと歩を進めたたよりない自分の足元、そして学ランの懐に包まりこの腕で必死に抱き寄せていた仔犬の温もりと命の鼓動を・・。
それは偶然通りかかった、当時クラスメイトだった樋口にサンダーを託した時の苦い記憶だった。
その後、再会した樋口と共に寿命を全うした老犬を薔薇園の傍に葬ったことも連鎖的に思い出した。
「・・・サンダー・・覚えてるだろ?お前が命を救ったあいつな、けっこう長生きしてくれたんだぜ?・・・ここに移ってすぐの頃だったかなあ・・老衰でね。でもその頃には薔薇園のあった土地はちょっと事情があってすでに手放してたからさ・・考えた末に荼毘に付したんだ。サンダーも立派な家族だからさ」
一抹の感傷を漂わせながら壱哉の眼前に冷えたビールの缶を差し出した樋口が、自分の分を手に白いクッションを抱えながらすぐ隣に腰かけると欲望を揺さぶるようにかすかな振動が伝わってきて、さらに密着した体温と煽るように鼻腔をくすぐる汗と薔薇の香りがした。
どうやら樋口は外食が多いらしく、冷蔵庫のかなりの容量を占めていると思しき缶ビールや缶チューハイが並び、続いてガラスボウルに入ったツマミの乾きものやチーズ、ナッツ類が置かれた。
以前、樋口をバーに呼び出して酒を飲んだことはあったのだが、その時はアルコール度数の高い甘いカクテルばかり飲んでいたが酔う気配は見せなかった。ただ普段は壱哉とは違い質より量が重視のようで、はたして家飲みの場合リラックスした状態で酒が入った樋口がどうなるのか正直興味はあった。
「久しぶりの再会を祝して乾杯」
「ああ、乾杯」
お互い肉親を失ったこともあり、少々湿っぽくなった気分を吹き飛ばすように挨拶を交わすと、缶を突き合わせ乾杯した。
留学時代は本場の生ビールを楽しんだこともあったが、常日頃から缶ビールを飲むことはもちろんなかった。興味深そうにこちらの反応を伺う樋口の視線を意識しながら壱哉は無言で受け取ると慣れない手つきでプルタブを開け、ちびちびと味わった。
そんな壱哉の態度をそっと窺い内心苦笑した樋口は、作法を見せるかのように躊躇なく一気に飲み干すと艶やかなため息をもらした。
酒には強かったが、自分の部屋で自分の隣りで壱哉が寛いでいる状況に柄にもなく緊張していたからか、すきっ腹でもないのにいつもより早く酔いがまわってきた。
「ごめん、黒崎はワインの方がよかった?・・・残念だけど今ちょうど切らしててさ・・しまった、せっかく黒崎が俺の部屋に遊びに来てくれたんだから酒屋で仕入れてこれば良かったなあ。こう見えてもさ、赤はけっこう好きなんだ」
酒が入ったからか緊張のためか、樋口は先ほどよりさらに饒舌になっているようだった。
「いや・・・俺もワインは赤白飲むが、厳選したものしか飲む気がせんな」
別に自慢ではなく、それが当たり前の環境で育ったゆえの発言だったが、案の定樋口は苦笑をもらした。
「でた!金持ち発言~!!黒崎~お前やっぱツンデレだよなあ」
???
前半はともかく後半の意味不明の言いがかりに、壱哉はムッと顔をしかめた。
「なにをいってるが知らんが、お前酒癖に問題あるんじゃないのか?」
遠まわしに酒乱だと非難すると、樋口は子供のようにぷうっと頬を膨らませながら拗ねたように言った。
「・・いくらなんでもこの程度で酔うわけないだろ?黒崎が飲まないなら俺が飲んでやる!」
そう言うなり樋口は止める間もなく二本目のビールをグビグビと変わらぬ勢いで呷った。
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