気づくと壱哉はどこかわからない場所に佇んでいた。そこは上下も前後もないまさに何もない空間だった。
やがて徐々にフェードインするかのように真っ白な空間に線でできた立体的な構造物が現れ、次の瞬間には壱哉は慌ただしく人々の行きかう廊下に立っていたのである。
!!
周囲を見回し情報収集する壱哉の脳裏に、そこが『病院』であることが瞬時に浮かんだ。
「ここは・・・病院!?」
場所が判明すると、そこが壱哉も知る大学病院であることがわかり、妙な胸騒ぎを覚えた。
それは自分がなにか大切なことを失念してしまっているのではないかという強迫観念にも似た胸騒ぎだった。
(なんだ・・・?この嫌な気分は・・俺の足の裏は確かに床に触れているというのに・・消えない浮遊感の正体はなんだ?)
まるで嵐に飲み込まれたタオルのように心もとない存在になった気分だった。
壱哉は過去に一度だけ全てをもぎ取られてしまうような抗えない感覚に支配されたことがあった。
それはかつて悪魔の罠にはまり心臓が悲鳴をあげ発作を起こしあやうく命を落としかけた時の忌まわしい体験だった。
(あの時の感覚に似ている・・・まるで死に瀕しているかのような・・纏わりつく不快感の正体はなんだ!?)
―――さん?
その時誰かの声を聞いた気がした。
(・・・なんだ?俺を呼ぶのは一体誰なんだ!?)
急いで声の主を探すべく周囲を見渡したが、自分の方を注視しているものは皆無だった。
!
なぜなら、まるでS・Gカードが点滅していた時のように壱哉の体は個を保てず、まるで幽鬼のように不安定で透明な存在だったからだ。
(だが俺はここにいる!!・・そうだ、俺を呼ぶ奴がいる以上、俺は確かに存在しているんだ!!)
壱哉は動揺する弱い心を叱咤すると、先ほどの声の主を探し出すために集中して煩雑な音に耳を傾けた。
やがて、壱哉の耳にかすかな愛しい声が届いた。
―――黒崎さん
それは確かに、恋人・・清水新の声に他ならなかった。
その瞬間、眩しさに覆われ咄嗟に目を閉じた壱哉は何かに引っ張られるような釣り上げられるかのような感覚に襲われた。
―――新!!俺はここだ!!ここにいる
声なき声で叫ぶ壱哉が気づくと抵抗はやんでおり、ゆっくりと目を開けると病室に佇んでいた。
!!!
見開かれた双眸に映し出されたもの、その異様な光景に壱哉は呆然と立ち尽くした。
広い病室の中央に置かれたベッドの上に寝ているのは間違いなく自分だった。
その傍らに頽れているのは間違いなく壱哉が愛した新だった。
――新、泣いているのか?
新は壱哉の手をそっと握りしめたまま、いつか風呂場で垣間見た時のように心細げな様子で泣いていた。咄嗟に壱哉は手を伸ばし温かな新の体を抱きしめようとしたが、存在の消えた手はただ空しく宙を掴むだけだった。
悲嘆にくれた恋人がいても、現実に干渉することができない身では慰めることすらできないのだという現実が壱哉を打ちのめした。
(俺はっ・・・お前を抱きしめて慰めてやることすらできないのかっ!?・・俺はこのまま消滅するしかないのか!?)
壱哉の脳裏にもう一つの世界で新と過ごした夢のような数日間の出来事が走馬灯のようにぐるぐると回った。
『甘い夢』と『過酷な現実』そのどちらにも新はいた。
(そうだ!・・俺は今、悪夢を見ているのかもしれない!・・目の前のこれが夢だということだって・・)
しかしそんなはずはないと確信を持ったかのように冷静な頭の片隅で警鐘はなり続け、安易な方へ流れようとする壱哉を引き止めるかのように新が眠る自分に話しかけた。
「黒崎さん・・悪魔なんかに負けちゃダメだ・・あんな奴ブッタおして早くっ・・目覚ませよっ!!・・・俺、信じてるからっ・・だから早く戻ってこいよぉっ!!」
―――新!!
「・・・清水さん、信じて待ちましょう。壱哉様はあんな卑劣な悪魔に断じて遅れをとる方ではありません。それにっ・・・こうなってしまったのは私の責任です。・・・まさか壱哉様がお召し上がりになったのがネピリムの仕込んだものだったなんて・・なぜ、気づかなかったのだろうっ。よりにもよって壱哉様にこのような仕打ちをするなんて・・私は絶対にネピリムを許しません。・・・ああ、壱哉様、できることなら私が代わりたい・・・」
―――吉岡!!
最早壱哉にもどちらが『真実』でどちらが『虚構』なのかということは嫌でもわかった。
そして自分が安穏と温い『夢』に浸っている間も、こうして大切なかけがえの者達を悲しませているのだということも。
そしてさらに追い打ちをかけるように、複数の声が脳裏に響きわたった。
『どうなんですか!先生・・壱哉様はっ・・助かるんですよね?』
『幸い胃の洗浄を速やかに行ったため、現在患者の容態は安定しています。・・しかし、問題は患者の意識が戻らないということです。原因はわかりませんが、このまま目覚めずに昏睡状態のまま・・ということも』
『そ、そんな・・・・』
『黒崎さんが、そんなウソだろっ?・・うっ・・・俺、やだよっ・・・』
医師の告知を受け悄然とした面持ちでうなだれる吉岡と、悔しそうに口を引き結び両手を握りしめたまま身を震わせ立ち尽くす新の姿が続けざまに脳裏に浮かんだ。
(・・許してくれ、新!・・・吉岡!・・俺が愚かだった)
不安で崩れ落ちそうな二人を前に壱哉は声なき声で叫ぶことしかできなかったのだった。