地元の高校を出ずに留学したのだと風の噂で知ってはいたが、10年もの間音信不通だった壱哉が現在何をしているのかは知りようもなかった。それが突然地元の商店街で豆腐をもって突っ立ているところに遭遇したのだから、彼の行方をそれとなく気にかけていた樋口としては思わず声をかけずにはいられなかったのである。
「・・・なに、もしかしてこっちに帰って来てるのか?」(-100,000)
壱哉の実家の事情はなんとなく知ってはいたがすでに生家は売却され人手に渡っていたし、実父とはあの頃から距離をとっている様子だった。だから中学を卒業した壱哉が、イギリスに留学したと聞いた時も、特に違和感はなかったが、結局壱哉が戻ることはなく、今思えば実家を売却したのもその決意の表れだったのかもしれないと思えば、彼が故郷を捨てたことが残念でならず、もう二度と会えないのだという感傷に浸らせた。
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一方、帰郷を喜ぶ樋口の言葉に壱哉は些かの不快感を覚えずにはいられなかった。母の死後、二度と戻らぬ覚悟でこの地を去ったというのに、仕事の都合で否応なくこの地へと引き戻されてしまった。ここが母が亡くなった土地であり、縁を切ったも同然の実父ともどもこの地に縛られているのだと思えば、よりやるせない思いがした。
「・・・黒崎?・・どうしたんだ?・・・・大丈夫か?」
どこか不安げな樋口の言葉に、壱哉は内心苦笑をもらした。
(まったく・・吉岡といい新といい・・コイツといい・・俺の周りの奴らは心配性な奴ばかりだな。俺はそんなに頼りなく見えるか?)
しかし実家の問題に樋口を立ち入らせるつもりのなかった壱哉は、傷心を完全に押し殺したままきっぱりと言った。
「別に・・・なんでもない。こちらへは仕事できたんだが急に空きができたんでな・・わざわざ東京に戻るのも面倒だから土地勘のあるこっちでしばらく過ごそうと思っただけだ」
嘘はすらすらとついて出たが、樋口はその説明で納得したように頷きながら言った。
「へえ・・仕事って営業かなにかか?・・・どこも不景気だから大変だなあ。・・まあ俺はそのおかげで黒崎に会えたからいいけどさ」
壱哉は訂正せずに樋口の勘違いをあえてそのままにしながら、改めて樋口を観察した。
現実では樋口とは土地の権利を巡る対立をしていたのだが、なによりも反抗期を終えた彼が父親の遺志を継ぎ薔薇の新種開発をしていたことが壱哉の癇に障ったのだ。だから執拗な嫌がらせもしたし、軽蔑されるような態度をとりもした。
それはともかくここでまた己の素性を明かすことで、樋口と揉めるのは得策ではないとの判断からだった。
「お前は?・・・なんの仕事をしているんだ?」
わざとすっ呆けてそう尋ねると、樋口は自虐的な様子で微笑んだ。
「・俺は自営業をしてるよ・・・覚えてるかわからないけど、うち花屋だっただろう?・・・今は俺が店主をしてるんだ。あ、もし花が入用だったらさ・・・【樋口生花店】※をよろしくな?」
!!
何気なく言った樋口の言葉は壱哉に衝撃を与えた。
(・・生花店だとっ!?・・花壇ではなく?・・いったいどうなってるんだ)
そんな大切なことを樋口が言い間違えるはずもなく、またここに一つ現実との差異を見つけて壱哉は密かに嘆息した。
一方、樋口は急に壱哉の態度が余所余所しくなったことで、己の失言を悟りひそかに動揺しながら、今後壱哉に会える確率はどれくらいだろう・・と必死に考えていた。樋口は壱哉の左手の薬指に視線を注ぎながら、指輪の不在に彼が未だ独身である可能性に希望を見出していたのだった。
(指輪してないってことは黒崎はまだ独身なんだよな・・?)
そうは思っても、安堵の材料とは程遠かった。
目の前の壱哉が独身の自由な雰囲気をまとうわりに、所帯持ちのようなガードの固さも伺えたからだ。根拠と言えるほどのものではなかったが、つい先ほどのことだった。立ち話をしていた自分達のすぐ脇をなかなかの美女が通り過ぎたのだ。彼女は男の眼差しを当然のごとく受け流しながら、こちらへ蠱惑的な視線を寄越したのだが、思わず本能的に姿を目で追ってしまった樋口に対して壱哉はこれっぽちも関心を寄せなかったからである。
(もしかすると・・恋人がいるのかもしれないってことか)
それは樋口を落胆させるものだった。なによりも自分が中学時代、壱哉に向けていた淡い想いを未だ吹っ切っておらず、恋人の有無に一喜一憂していることに愕然とさせられた。
(だいたい・・仮に黒崎に好きな相手がいたって・・女じゃどのみち俺に勝ち目なんかないよなあ)
壱哉の性癖を知らない樋口は『初恋』相手との突然の遭遇に胸を高鳴らせ、よもや彼が不埒なことを考えていることなど知る由もなかった。
対して、樋口から注がれる自分の過去を知るがゆえの気遣いに満ちた眼差しを煩わしく感じながら、この出会いがもたらすものについて考えを巡らせていた壱哉の脳裏にふと穏やかな表情をした新の顔が浮かんだ。
『・・・俺も黒崎さんも・・親のことでは色々あったけどさ・・いつかわかり合える日がくんのかな?・・・・今すぐはまだ気持ちん整理つかねえし無理だけどさ・・俺はその日がくるのを諦めたくないんだ』
そう言って控えめな笑みを浮かべた新のことを思い出した瞬間、壱哉は無性に彼に会いたくなった。
(+200,000)
――――新、今すぐお前に会いたい!
壱哉は欲望を感じながらも樋口から目をそらすと言った。
「悪いな・・樋口、もう行かないと」
言葉を濁す壱哉の態度に焦燥を感じた樋口は、次の瞬間彼を呼びとめて言った。
「黒崎!・・・その・・また、会えるかな?」
それに対し壱哉は、「さあな」と曖昧な返答を返すだけで、今度は樋口も去っていく彼を引き止めなかった。
※実在する店名とは関係ありません。またゲーム中にも登場しないこの作品だけの設定です