「・・・黒崎?・・・黒崎だろ!?」
突然背後から声をかけられ振り向いた壱哉の視線の先には、ブラウンのチェック柄のシャツにキャメル色のスラックス姿でオフホワイトのエプロンをした見覚えのある青年が佇んでいた。
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「お前・・・・樋口か?」(+10,000)
(確かにこの商店街はヤツの地元には違いないが・・まさかここで遭遇するとはな)
突然の樋口崇文との再会に動揺する壱哉の気を知らず、樋口は嬉しそうな笑みを浮かべながら言った。
「やっぱり黒崎、久しぶりだなあ・・・一目でお前だってわかったよ。・・10年ぶりだなあ」
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眩しげに自分を見つめる樋口の言葉に、壱哉は彼もまた自分のことを忘れているのだと悟り愕然とした。現実世界では土地をめぐる諍いの後和解してからはよき友人として交流のあった樋口だったが、ここでは10年ぶりに再会したことになっているらしい。
「ああ・・お前はだいぶ変わったんじゃないか?・・すぐにはわからなかった・・見違えたな?」
過去の体験を思い返しながら、躊躇いがちに答えると樋口は屈託のない様子で破顔した。
「そうだろうなあ・・俺、中学の時はチビだったもんなあ。でもあれからぐんぐん背が伸びたんだ・・今ではお前とさほど変わんないだろう?」
綺麗な歯並びの真っ白な歯を見せ、爽やかな印象を与えるサラサラな茶髪のショートヘアを照れ隠しにかき上げる樋口には、未成熟の新にはない成熟した大人の色香が漂っていて、禁欲生活まっただ中の壱哉の雄の本能を刺激するものだった。
(樋口め・・相変わらずいい身体をしているな)
こういってはなんだが蓼食う虫もなんとやらで、『ぎりぎり守備範囲』の新に手を出し結果的に好意を寄せたとはいえ、本来は成熟した男たちを好む壱哉にとってそれは異例の出来事だったのである。
すでに友誼を結んだ樋口に今更欲望を感じることはなかったが、目の前にいる他人行儀な樋口との間に生じた距離が壱哉を戸惑わせていたのだ。
偏った食生活からくる新の痩身な体に比べ、健康的でどちらかというと引き締まった樋口の体は否応なく壱哉の興をそそるものだった。例えていうならば所帯を持ちしばし忘れていた狩猟本能が目覚めたとでもいおうか・・
もちろん新を愛しているし、心変わりなどおよそ考えようもなかったが、それでも瑞々しい樋口の体躯を前にして壱哉は己がたとえようもなく餓えていることを実感したのだった。
邪な欲望を向ける壱哉の思惑など知る由もなく、久しぶりの旧友との再会にいつになく舞い上がっていた樋口は、改めて壱哉を見やった。
(・・・なんというか、こうやって見るとやっぱり近寄りがたい雰囲気あるよなあ・・黒崎って。・・他人を寄せ付けないオーラ出てるっていうか。ま、そこがまた魅力なんだけど)
最初の興奮が冷めると、樋口は自分が少々の気まずさを感じていることに気づいた。今の自分といえば、親の遺してくれた花屋を細々とやっているに過ぎない身だった。一方、壱哉はといえば明らかに一級品を身に着けた洗練された物腰の人物だった。そう自覚してしまうと、自分の野暮ったい普段着姿が急に気恥ずかしく感じられて、少々いたたまれない心地になったのだが、高級腕時計をした壱哉の手首にかかったあるものに目を止めた樋口は、こみ上げた笑いを我慢できずに噴出していた。
「・・・なんだ?」
突然笑われ、ムッとした面持ちになった壱哉の姿がまたおかしくてひとしきり笑い無意識にしていた緊張を解した樋口は、なんとか気を落ち着けると、笑いの発作が起きた原因を指さしてやった。
「・・それ、なんか似合わないなあっと思ってさ。ごめん・・ちょっと意外だっただけなんだ」
樋口の指した豆腐の入った袋を持ち上げた壱哉は、それでも訝しげな面持ちのまま呟いた。
「・・・そうか?・・・俺だって豆腐くらい食べるんだがな」
「ま、そうだろうけど・・でもお前が自分で買いに来るイメージってないからさ?」
考えてみれば、一方的に憧れていただけのそれほど親しくなかった壱哉相手に、こんな砕けた口調で話しかけられてしまうほどの歳月が過ぎてしまっているのだと思うと、樋口は複雑な心地がした。