――新!!
カーキ色の作業着を着た記憶と寸分変わらぬ少年の姿に壱哉は心底安堵を感じずにはいられなかった。
「えっと・・・どちらさん?」(-500,000)
!
人見知りする様子でこちらを伺うように警戒した面持ちで尋ねる新の眼差しを真正面から受け止めた壱哉はこの瞬間、大きな落胆と同時に心の片隅で奇妙な安堵を感じた。
――なんだ?
たった今感じた気持ちが不思議でならず物思いに耽ける壱哉の思考は、無遠慮な新の呼びかけで中断することになった。
「あのさ・・・うちになんの用?」
新の問いかけにここが正念場であることを悟った壱哉は、慎重に切り出した。
「俺は、黒崎壱哉・・・覚えてないか?」
名乗る壱哉をうさん臭そうに見上げながらしばし考え込んだ新だったが、心当たりがあったのかみるみる表情が曇り、先ほどはなかった敵意が芽生えたようだった。
――新?
動揺を悟られまいとなるべく平静を装いながら出方を伺う壱哉を、勝気そうな大きな眼でキッと睨み付けた新は口早に捲し立てた。
「あんたが黒崎の社長・・・ってことだよな!?・・・あの後すぐっあんたの車壊したからって・・俺、バイト・・クビになったんだからなっ!・・・確かに工具箱落とした俺が悪いんだけどさ・・でもっ・・だからって・・・酷ぇよ・・・あんなとこに車止めたあんたにだって責任あんだろぉ!?」
―――あ、そこからなのか
逆切れ状態で精いっぱい虚勢を張り息巻く新の姿を懐かしく感じながら、思わず緩みそうになる口元を引き締めた壱哉は、有無を言わさぬ勢いで、興奮を宥めるかのようにそっと少年を抱きしめた。(+200,000)
!!
壱哉が動いた瞬間、殴られると咄嗟に身構えた新だったが、温かな腕に抱き込まれ大いに動揺することになった。
(な・・なんでだよっ!?なんで俺、こいつに抱きしめられてんだよ!?)
壱哉の腕の中で緊張に身を固くしたままの新の耳に、とても真摯な壱哉の声が聞こえてきた。
「・・・車のことはいい。大事にするつもりはなかったし怪我人がでなかったのは不幸中の幸いだった。・・・・なにより、お前が無事で本当に良かった。危険な現場で働いているんだ、これからはちょっとのミスが命取りになるってことを肝に銘じればいい」
――黒崎さん?
思いの外優しく諭された新は、恐る恐る顔を上げると、改めて壱哉を見つめながらばつが悪そうな微妙な面持ちで言った。
「・・あんた、変わってるよな。あんなすげぇ車ボコられたらさ、俺だったら頭くんだろうなあ。・・・分かってるんだ、俺が悪いんだって。・・・さっきは怒鳴って悪かったよ・・バイトクビんなったのはしかたなかったと思う。なのにあんたに八つ当たりなんて最低だよな、・・・・ごめんなさい」
かつて新に非道を働いた自分の仕打ちを思い出し、こみ上げた後ろめたさをなんとか飲み込んだ壱哉は素直な新を前に改めて反省せざるを得なかった。
「・・・あ・・のさ・・玄関あけっぱだと蚊ぁ入ってくるしさ・・とりあえず・・中、入ってよ」
抱きしめられたことが余程恥ずかしかったのか、頬を羞恥で染めたまま照れ隠しにぶっきらぼうに言う新から先ほど感じた敵意が消えたことに満足しながら、壱哉は促されるまま部屋にあがりこんだ。
「狭くて驚いた?」
高級車を当たり前のように乗り回す壱哉を前にどこか卑屈で自虐的な調子で新は言った。
「いや・・・自分の稼ぎで賄ってるのであれば上等だ」
新の年頃なら親がかりの生活を送る者は決して少なくない。壱哉の答えに、新は複雑な面持ちでただ一言「・・うん」と頷くと気を取り直したように続けた。
「今、茶ぁ入れるからさ・・・適当に座ってよ」
外廊下側とは別の道路に面した窓は半分開いていたが、外気と大差ない熱気が狭い6畳の間にこもっていた。
部屋は片付いており一見すると以前訪れた時と左程変わった様子は見受けられなかったが、相変わらず殺風景な部屋の中央に折り畳み式のローテーブルがあり、あいにく座布団はなかったが壱哉は躊躇なく擦り切れた畳敷きの床にどかりとあぐらをかくと改めて室内の様子を伺った。
玄関を入ってすぐ横には狭いがキッチンもあり、湯気を立てている片手鍋からは食欲をそそる匂いが漂っていた。
部屋に時計はなく正確な時刻はわからなかったが、恐らく初対面に等しい者を訪ねるにはいささか礼を欠いた時間だろうと改めて反省しながらも壱哉が急に空腹を感じたのは、この部屋を満たす温かな匂いゆえだった。
(・・・この匂いはみそ汁か?・・美味そうだな。・・・新の作ったみそ汁の匂いを嗅ぐとやはりホッとするな)
壱哉は冷蔵庫を覗きこむ新の小柄な後姿を懐かしく感じながら、手持無沙汰な面持ちで部屋の片隅で首を振りながら熱気を巻上げている古びた扇風機に視線を転じた。どうやらエアコンの類はなく、現在フル稼働中の扇風機だけが頼みの綱らしい。
新の部屋にはTVやパソコンなどの娯楽を供する物はなく、ガタガタとまるで瀕死のような異音を立てる扇風機と換気扇の音の他には窓の外の街路樹で存在を主張する蝉の鳴き声と、両隣の住人の立てる生活音だけだった。
「・・・麦茶だけど・・・よかったら飲んでよ」
湯呑に注がれた冷えた麦茶で渇いた喉を潤した壱哉は、少し残念な面持ちで半分ほど減った湯呑に目を遣った。
「・・・焙じ茶じゃないのか」
少し落胆したような壱哉の独り言を聞きつけた新は気を悪くした風でもなく答えた。
「あ、黒崎さんも焙じ茶好きなんだ?・・・俺も結構好きなんだけどさ・・今は夏だしもっぱら麦茶ばっかだな」
「そうか」
他愛ない会話だったが、壱哉は妙に嬉しかった。公園で会っていた時は、良い人間に見せようとどこか無理をしていたが、それでもあのひと時全てが嘘だったわけではなかった。