清水新が何者かに襲撃されたと、吉岡の部下から緊急報告が入った途端、様相が一変した。
『全くっ・・・どこのどいつだッ、アイツは俺の獲物だぞ、誰にも渡すものかッ!!吉岡!車を出せっ』
―――!!
((・・・壱哉様?))
予想外の激昂ぶりに呆然としつつも、吉岡は壱哉の意に添った。
廃工場から無事逃げおおせた新が、家に戻ったという情報を掴んだ吉岡は血相を変えた壱哉を乗せ、清水新の住居まで案内した。冷静さを欠いた壱哉が少年にしたあの夜の仕打ちを思い出だした吉岡の顔が再び曇った。
そして乱心のあまり狼藉を働いた壱哉に対し、清水新は必死の反撃を試みたのだ。
『・・・なかなか気の強い子猫だな。・・楽しめそうだ』
はだけたシャツの間から覗く逞しい主の胸元にくっきりと刻まれた緋色の爪痕を目の当たりにして憤る自分とは真逆に、壱哉は悠然とした物腰で不敵な笑みを浮かべていたことを思い出した吉岡は苦笑を漏らした。
(あの時の壱哉様は本当に楽しそうでした。)
そして無意識に自らの唇に人差し指と中指でそっと触れた瞬間、軟膏を纏わせた指先で手当てした時に触れた壱哉の肌の熱さや感触までもが鮮やかによみがえり吉岡の頬が微かに朱に染まった。
それから・・・・ここに連れて来られてからも、度々吉岡は少年の流す涙を目にした。
よく泣く少年だと思いながらも、その理由を考える度、吉岡は深く重い溜息をつくことになった。なにか慰めの言葉をかけてやりたかったが、その理由を知りながら黙殺するしかできない自分に、偽善に塗れた言葉をかけられたとしてもあの少年にはなんの慰めにもならなかっただろう。
青白い月明かりに照らし出された居間に満ちる、悲壮感に満ちた少年の嗚咽を聞きながら立ちつくすことしかできなかった吉岡に成す術はなかった。
しかし、それからしばらくしてその涙の理由に変化が訪れたのを、偶然居合わせた吉岡は目撃することになったのだった。
買出しに行った商店街でのことだ。新を伴い車で偶然通りかかった吉岡は、壱哉が昔の男と一緒のところを発見したのだが、恐らく恋する者の成せるわざで何がしかを察したのか、新の双眸から溢れ出た涙は日の光に反射してとても綺麗だった。
『あっ・・・黒崎さん・・・・・・』
その夜、感極まった様子で新を伴い退席した壱哉の背中を見送った吉岡の耳に聞こえて来たのは、昼間の彼からは想像もつかぬほど艶めいた甘く切ない吐息と、そして秘めやかに・・穏やかに交わされる睦言だった。
(あんなに酷い目にあったというのに・・・まさか、彼が壱哉様を受け入れるとは・・思いませんでした)
『あの、吉岡さん。・・・俺に、・・・台所を使わせてもらえませんか?』
初めて清水新からそう頼まれた時は困惑した。外食が多いとはいえ、折に触れ壱哉に食事を用意するのは吉岡にとって楽しみの一つだったからだ。大切な役割を奪われることを些か不快に感じながらも、億尾にも出すことはなかった。
『もしかして・・・遠慮されてるのですか?』
裏表のない実直な性質の少年であるから年長者の自分に料理をさせることに抵抗があるのかもしれないと察しながら問うと、思った通り新は頷くと躊躇いがちに続けた。
『それもありますけど・・・俺も少しは役に立てたらと思って。・・こうみえても、料理は得意なんです。・・お袋の見よう見真似ですけど・・・だからっ・・・お願いします吉岡さん!』
((あなたの役割は壱哉様を慰めることではないのですか?))
そう言いかけた吉岡だったが、顔を強張らせて両手を握り締め緊張を漂わせた新の様子を見たら、咄嗟に口篭もってしまった。かわりに理解を示すように頷き返してやると新は安堵したように肩の力を抜いた。
公園で自作弁当を作っているとの部下の報告にあったが、実際どの程度の腕前なのかはわからなかった。それでも吉岡にはある種の確信があったのだ。
((壱哉様が喜ばれるかもしれないな))
その昔、料理などしたことがない自分が作ったオムレツを『美味しい』と嬉しそうに食べてくれた幼い壱哉の笑顔が脳裏を過った。あの頃の壱哉はそれほどまでに愛情に飢えていた。そして恐らくきっと、今も・・・・。
そう思ったから、吉岡は新の申し出を受け入れることにしたのだが、台所を任せるということはある種の信頼関係が不可欠だった。
『お任せしても構いませんが・・くれぐれもお気をつけください。・・・いいですね?清水さん』
『!・・・はい、・・・チャンスをくれて・・ありがとうございます、吉岡さん』
気性の荒い雄猫のような一面もあるようだが、本来は責任感の強い聡明な少年なのだろう。やんわりと釘をさした吉岡の意図を汲んだ姿は年相応とは言い難く背伸びしているのがはっきりと見てとれるものだった。
そしてその読みは間違っていなかったようだ。新は吉岡の示した信頼に見事応えてみせたのだから・・・。
『この味噌汁は本当に美味いな』
嬉しそうに味噌汁をお代わりする壱哉の様子を思い出した吉岡は諦念と安堵の入り混じった溜息をもらした。
(壱哉様のあんな笑顔は本当に・・・久し振りだった)
だからご褒美の笑顔をもたらしたのが、清水新だったとしてもやはり嬉しかった。
(あの時食べた味噌汁は、少年と同じで・・とても素朴で温かな味がしました。だからこそ、壱哉様もきっと彼に惹かれたのでしょう)
少年の態度の変化は壱哉にも深く影響を及ぼすものだった。強烈な光りに抗えず、焦がれ、引き寄せられてゆく蛾のように、傍で見ていてもわかるほど急速に壱哉は新に惹かれていった。そのことは些かの苦しみを吉岡にもたらすものだったが、壱哉の変化を受け入れることで生じるであろう可能性の方が吉岡にとっては肝要なことだった。