少年Aサイド
「・・・あの!」
暗い街路樹の影からいきなり声をかけたからか、渡辺氏を驚かせてしまったようだった。
「・・・君は?」
常連とはいえ、一度店で会った時に軽く紹介されたことがある程度の俺のことなんかオーナーが覚えているはずもないと思った。・・・自分で言うのもなんだが、俺は印象が薄いし。口下手な俺にはどうすればこの状況を打開できるのか上手い言い訳が思いつかず、自分から声をかけたというのにすっかり固まっていると、まじまじと俺の顔を見つめていた渡辺氏がふいに言った。
「ああ・・以前一度桐野から紹介された・・そう、確か『少年A』君だったかな・・?」
桐野は徹底していて、スタッフだけではなく、渡辺氏にも俺を『少年A』だと紹介していた。今更なので俺はそこにはこだわらず、むしろ覚えていてくれたことに驚いていた。
「・・はい。あの・・覚えていて下さったとは思いませんでした」
桐野は別だけれど、一応目上の相手なので俺は慣れない丁寧語を心掛けながら緊張でつっかえつっかえ言った。
すると渡辺氏はなんでもないことのように笑みを浮かべた。
「商売柄、一応ね。・・それで私に何か用かな・・?生憎ともう閉店してしまった後なので・・サービスは提供できないが」
それは承知の上だった。俺は緊張で嫌な汗を掻きながら、用件を切り出した。
「・・はい。・・あの・・マスターの・・桐野・・さんはいますか?」
―――言った!
後悔しても遅かった。もちろん、例え居たとしても会わせてもらえるとは限らない。俺は明らかに不審人物だった。
もしくは可能性は低いけれど・・もう帰宅した可能性だってあった。それに・・居たとしても俺にはまだアイツに顔を会わせる覚悟がなかった。緊張でどんどん気分が悪くなりながら、俺は渡辺氏の反応を固唾呑んで待った。
渡辺氏は煙草を弾き灰を落としながら、どうすべきか逡巡しているようだった。彼は俺と桐野の間にあったことは知らないだろうし、オーナーとしての責任がある以上当然のことだった。
もし会わせてもらえないのならば、もう諦めよう。卑怯な俺が事情を知らない渡辺氏の判断に自分の運命を委ねていることなど露ほども知るはずもないが、意外にも運命の女神は俺に微笑んだ。
「・・・いいだろう。本来なら従業員以外はご遠慮頂いているのだが・・君はうちのお得意様だし特別にご招待しよう」
了承してもらえるとは思っていなかったので俺は一瞬絶句してしまったが、煙草の吸殻を携帯灰皿にしまい先に歩き出した渡辺氏の背中を慌てて追いかけながら礼を述べた。
「あ、ありがとう・・ございます」
「別にたいしたことじゃない。・・それで?なぜ桐野に会いたいの?・・事情を聞いてもいいのかな?」
途端に応えに詰った。俺は気持ちを伝えることもできなかったことを悔やんでいたが、桐野に会った後も冷静でいられるか自信がなかった。痴話ゲンカできるような親密な関係ですらなかった俺に・・どんな第一声が相応しいのかわかるはずもなかった。桐野だってオーナーの手前保ちたい体面だってあるはずだ。俺は別に今更恨み言を言うつもりもなかったけど、よりを戻して欲しいなどと言える立場でもなかった。
愛人関係は解消したって言っても、俺はまだアイツに庇護を受けている身で・・
そう思ったら足が竦んだ。もしアイツの機嫌を損ねてしまったら・・俺は今度こそ愛想をつかされるかもしれない。
今アイツの援助が打ち切られたら・・俺は路頭に迷うことになる。今の生活を捨ててまで、振り向いてもらうこともできない男に告白する意味があるのか・・・?そんな打算的なことを考えてしまう自分が嫌だった。・・愛人関係を甘んじて受け入れていた俺がそんなことを考えるのは説得力がないけれど。もし会えるのがこれで最後になるならば、最後くらい・・素直な自分を見て欲しかったのだ。打算で始まった関係だったけれど、打算だけではない感情があったことを・・一言伝えたかった。
だから俺は顔を上げて渡辺氏に言った。
「・・桐野・・さんには・・たくさん世話になったから・・だから一言お礼がいいたくて」
そう言うと、俺の言葉を吟味した上で納得したように渡辺氏は頷いてくれた。
「ああ、そう言えば君は作家志望だったね?・・だからうちの店に取材にきたのだったかな」
記憶を確かめるようにひとりごちる渡辺氏に、今度は俺が頷き返した。
非常灯のついた人気のない廊下を歩き、いくつかドアをくぐった後ここで待つように俺は言われた。それは当然だろう。相手の確認も取らずに対面させることなどできるはずもない。運良くここまで来れたけれど、桐野次第では俺はこの先に進むこともできないと言うことだ。オーナーの手前もあるし俺はここで追い払われるかもしれない。
そう思えば待つ時間はやけに長くて・・俺は我慢できなかった。
俺は覚悟を決めると、非常識な振るまいだと承知の上で渡辺氏の後を追った。