異変を感じた黒田坊は慌てて小さくて華奢な鳥居の身体を抱きとめた。動揺しながら、様子を伺うと穏やかな寝息が聞こえて来た。顔には苦痛の様子もなくどうやら本当に眠っているだけのようだった。一先ず大事無い様子に黒田坊は安堵すると、そっと鳥居の身体を横たえた。
しかし異変はそれだけでは終わらなかった。
「・・・・ぐっ・・」
背後で聞こえたうめき声に振り向くと、柳田が頽おれるのが見えた。
「柳田!!」
倒れた柳田を抱き起こすと、息苦しそうに胸を掻き毟り身を捩り喘ぐ柳田の赤い唇の端に血の筋が垂れた。
「・・・これは」
どうやら毒に当ったらしい。不穏な展開に身を固くする黒田坊の耳に再び耳障りな声が聞こえて来た。
ヒトリハネムリ~
ヒトリハドクニクルシム~
ジョウジュデキルノハヒトリダケ~
サアドチラカヒトリヲエラベ~
スクエルノハオマエダケ~
「・・選ばなかった者はどうなる」
聞こえた言葉を吟味しながら黒田坊は一人ごちた。
しかし声は応えない。おそらくこの畏れの世界から出れば力は及ばないのだろう。しかしここから解放されるためには成就しなければならないようだ。そして選べるのは一人だけだった。
黒田坊が忠義を誓ったリクオの大切な友人であり、こんな自分にチョコレートを用意してくれた健気な少女と・・
かつて同胞であったこともあったが、山ン本の忠実な下僕であり浅からず因縁のある柳田。
どちらを優先すべきか・・悩む必要もない選択だったはずだ。
けれど・・・みるみる蒼白となっていく柳田の横顔と、安らかな寝息を立て眠る少女を前に黒田坊は苦悩していた。
このまま見捨てれば恐らく柳田は死ぬ。そう思えばなぜか胸が疼いた。
何を指して成就と呼ぶのかも曖昧だったが、どうすれば良いのか、黒田坊には確信めいた予感があった。
しかし幾多の血で薄汚れた自分が無垢な少女に触れる事は到底できないと思った。
しばしの逡巡の後、意を決した黒田坊は身を乗り出すと、すでに意識の途切れ途切れの柳田を抱き寄せた。すると柳田が焦点の定まらない眼差しを向け、微かに微笑んだ。
「・・・ふふ・・どうやら罰が・・あたったの・・・哉」
分不相応な想いを抱いた罰・・これはその報いだと思いながら、柳田は朦朧として遠のく意識の中そっと温もりに手を伸ばした。彼の人の頬に触れ声なき吐息とともに想いの丈を打ち明けた。
『ボクハ キミガ スキダッタ ヨ』
唇の動きを読んだ、黒田坊の双眸に微かな揺らぎが走った。
「愚かな・・奴だ」
彼か自分にか、誰にともなく呟くと、そっと唇を重ねた。こうして口付けを交わしたのは初めてだった。関係はもったが恋人同士ではなかったから口付けや愛撫はもちろん甘い睦言を交わすこともなかった。初めて唇で触れた彼の薄い血の気の失せた唇は柔らかく吸いつき、そして濃厚な血の味がした。抵抗のない唇の内側を探り舌を差し入れると、かすかに柳田が身じろいだ。
「・・・・んっ・・・」
やがて閉じられていた瞼が震え瞬きした後、柳田は目を覚ました。先ほどまで苦しくてたまらなかった。胃の腑が焼けつき毒に冒されたのだと自覚した瞬間、吐血していた。身体から力が抜けどんどん意識が闇に飲まれる気配に自分はここで死ぬのだと悟った。山ン本への忠義心だけは誰にも負けない自負こそあったが、その実彼自身はとても無力で取るに足りない惨めな存在であることもわかっていた。どんなに望んでも圓潮のように彼の一部になれるはずもなかったのだ。この世に未練があっても抗えそうにない、いっそあの世に行けば彼の人に会うこともできるだろうか・・?そう思えば死が安息にも感じられたまさにその時、先ほどまで荒れていた胃の腑から温かいものが全身に漲るのを感じた。
眼を開いた時見えたのは、どこか安堵した面持ちで覗き込む黒田坊の顔・・
「・・・・・・・?」
そして唇に残された温かな感触の名残だけだった。口付けたくて、でも躊躇われ触れる事の叶わなかった唇が目の前にあった。込み上げた欲望を抑える事ができずに夢うつつの心地で手を伸ばした柳田は、黒田坊の首を抱き寄せると、その唇を盗むようにそっと口付けた。「汚らわしい」とはらわれるだろうか?との予想に反して、一方的にし掛けた口付けは深まり逞しい腕に抱きしめられたまま柳田は身も心も震わせながら彼の唇を堪能することとなった。
やがて周囲の雰囲気が変わり、畏れの世界が夕闇に解けて消えていくのを感じながら二人は名残惜しげに身を離したのだった。
鳥居が眼を覚ました時、重なり合っていた一つの影がゆっくりと二つに分かれるのが見えた気がした。
「・・・・んん・・・?」
確かめるように寝惚け眼をこすりながら身を起こすと、心配そうにこちらを見下ろす黒田坊の姿と夕闇色に染まった背を向け佇む柳田の姿があった。
これがバレンタインデー事件の顛末である。
互いの無事を確認して安堵したのも束の間、目覚めた鳥居は申し訳なさそうに何度も黒田坊に頭を下げた。それからただならぬ雰囲気の二人をその場に残すことに、どこか後ろ髪を引かれる思いを抱えながら一人帰路についた鳥居だったが、その道すがら日頃しないことはするもんじゃないと改めて反省することとなった。二人の醸し出すどこかアダルトな空気に垣間見てしまったかもしれない大人の世界に動揺する鳥居の顔が赤いのはけっして夕日に照らされているからだけではなかった。
ひたすら謝る鳥居と別れた黒田坊は重い溜息をつくと、背後を振りかえった。
まだ口付けの余韻が残っているのかどこかぼうっとした面持ちで佇む柳田を見遣った黒田坊はさらに重く深い溜息をついた。
口の中にまだ、柳田の血の味がざらざらと残っていた。その味は否が応でも柳田の熱い粘膜の感触を思い起こさせた。血の臭気に心の深淵に眠る修羅の性がざわりと身じろぐ気配がした。黒田坊はその闇から意識をそらすと、柳田の腕を掴み歩き出した。すると、引っ張られながら小走りについて来た柳田が、その手をやんわりと振り解くと自ら黒田坊の腕に腕を絡ませ身を寄せてきた。
ドクン
繋いだ手の柔らかな感触と温もりがなんだか妙に照れくさかった。
「・・・それで、どこに行くの哉?」
どこか楽しそうに問われ、言葉に詰る黒田坊の頬は羞恥で上気していた。
「・・・ついて来ればわかる」
密着して互いの鼓動を感じたまま、動揺を押し隠した生真面目な面持ちで返す黒田坊。そんな黒田坊の横顔を見上げた柳田はその肩に頭をもたせかけると、そっと満足げな笑みを浮かべた。
「・・・・ああ、そうだね」
寄り添った二つの影は闇に融けるように街の雑踏へと消えていくのだった。
おしまい