昔話を今に:ドイツ時代のクルマその2 | モータージャーナリスト・中村コージンのネタ帳

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さて、ドイツで手に入れた最初のフィアット128は、とある大学教授のたっての希望で売却。その代り、私のクルマを最大2000マルクを限度に買って良いとのことになった。しかし、それまで私は足がなくなってしまうので、その購入まで大学教授もクルマの引き渡しを待ってくれた。

●工事中のアウトバーンでこんな撮影ができてしまう。この近くは週末になるとジムカーナをやるような場所だった。

 

ドイツはクルマの個人売買がその当時は非常に盛んでミュンヘン大学の近郊に行くと、路駐してある車はほぼすべて「売りたし」の張り紙がしてあった。

●まあ、時代が違うと言えばそれまでだが、クルマは皆安かった。こんなアルファに乗りたいものだ。

 

私が先生とクルマを物色に行ったのは、郊外のいわゆるドライブインシアターである。当時のその場所の写真が残っていたが、気に入ったクルマがあればそこにいるオーナーとの直接交渉で、試乗もその敷地内で行える。まあ、動くかどうかのテスト程度ではあるが。

●ここが2代目のフィアット、850スパイダーを購入したドライブインシアターである。パッと見てもVWが多いことがわかると思うが、たとえビートルでも私の予算の2倍はするほど高かった。今なら右の列に並ぶシトロエンGSに手を出すのだろうが、当時はとても手の出せる代物ではなかった。

 

 

多いのはやはりVW系のクルマだがさすがに高く、とても予算内では手が出ない。そんな中見つけたのがフィアット850スパイダーであった。状態は見る限りはすこぶる良く(実は後になってボディが錆まくっていたのを発見するのだが)、ちょい乗り試乗でもエンジンは実に快調に思えた。ただ、値段は予算オーバーであった。確か2500マルクの正札が付いていた。しかし、こちらが熱心に見ていることもあって、オーナー側から「いくらなら出せる?」と言ってきた。そこで率直に予算は2000マルクだと話すと、実はクルマは息子が乗ったいたもので、彼の大学進学資金のために売却するのだという。正直言って当時のドイツでフィアットは不人気車。その理由はやはり錆であった。だから、オーナーも折れた。せっかくのお客だし…お金に代えたかったのだろう。あっさりと500マルクの値引きを受けて、晴れて購入の手筈が整った。

●確か買ってすぐのころの写真。黒いハードトップが付いているがモナコに入った頃にはこいつを外して走っていた。どうやって外してそれを3階の自室に運んだかは今もって不明。火事場のバカ力だったのだろう。

 

やり取りはその場でお金を渡し、こちらは書類と簡単な契約書を交わし、そのまま車を乗って帰るという極めてシンプルかつ、大丈夫か?というような売買である。でも先生がオーナーのお父さんにお金を渡し、こちらは鍵と書類(車検のようなもの。ドイツではTǜfという)を貰い、そのまま車に乗って帰った。行きは先生のものになっていた128を私がドライブし、帰りは先生が128、そして私は手に入ったばかりの850スパイダーで帰った。

●初代のヘッドライトが寝たスタイルが好きという人の方が多いけれど、インテリアに関しては絶対に後期型がいい

 

 

これが2代目のクルマとなった850スパイダー購入の顛末だ。このクルマではミュンヘンからモナコグランプリを見にモナコまで走ったこともある。結構走り回ったがトラブルは皆無。ただ、車検を受けるために個人で車検場に持ち込んだところ、驚いたことに検査官はいきなり小さな金槌をもってボディを叩き出した。するとエンジンルームの隔壁がごそっと崩れ落ちた。さすがに検査官はフィアットの泣き所を心得ていたようで、「はい、ここを直して」の一言。街の修理屋で、鉄板を当ててそこを塞ぐだけの何とも雑で荒々しい作業の末に(しかも塗ってない)いとも簡単に車検をパスして帰国までこのフィアットのお世話になった。

●冬の気温が日中でもマイナス2~3度のミュンヘンでオープンはやはり結構つらい。その代わり夏は最高だ。

 

帰国に際してはまた日本人コミュニティーに売却するつもりだったが、足蹴く通っていた「大都会」という名の鉄板焼き屋の調理人が欲しいという。2000マルクで買ったけどいくらなら買う?と聞くとじゃあ2000マルクでいいと…内心「マジか!」と思ったがすんなり交渉成立で、私は確か8か月ほどだった気がするが、850スパイダーをタダ乗りした結果となった。

 

後期型のスパイダーは前期型と違い、ディノ(246だ)のパーツをふんだんに使っていて、自分的に気分はディノであった。懐かしい思い出である。