私は多分、母親の胎内で生まれたたんぱく質の塊に宿った

私は多分、母親の月経が遅れたことにより存在の疑いをかけられた

私は多分、母親が疑惑を確信に変える為に訪れた産婦人科でその存在を

       明らかにされた。

 

 

今現在、知識として蓄えられているものが、私の誕生の成り立ちを想像させる

例えば、これを否定したとしても。今、この瞬間、思考をめぐらせている私という

存在は消えない。というよりも、過去に起きた事象を完全否定するという事そのものが

ヒトの力の及ぶ領域を逸脱した「不可能」と考えるのが自然だろう。

 

昔読んだ本の物語の登場人物に「存在そのものを否定する」 

という術で、魑魅魍魎をやっつけていくヒトがいたが、そういった事は

おそらく現実には存在し得ないとされている「完全なる無」の領域を侵す

非現実的な事であるといわざるおえないだろう。

 

しかし、この発想の根底にあるのは、過去からのつながりによって存在している

現在を、潜在的に肯定している私たちがいるともいえる。

 

そして過去を失わない為に、ヒトは生まれながらに誰もが誰にも教わらず、指示されず、導かれず

他者とのコミュニケーションをとろうとする。それが過去を掴もうとする本能的行為であり

それなくしては私たちは存在し得ないゆえに「生」と同時にヒトに組み込まれたプログラム

つまりは【生きる為のプログラム】という事がいえるのではないだろうか?

 

このプログラムによってヒトは続いているのだ。

 


つまり、私たちは一人では生きられないのだ

つまり、私たちは相互補完することで続いているのだ

つまり、私たちの目的は伝え、受け取る事なのだ

 


もちろん、ヒトだけでなく、自然も動物も宇宙も過去からの情報を

今も生まれ続ける新しいものに継承しながら続いている

 

その始まりへの疑問は在れど、その方法にも謎はあれど

程よく納得のいく回答とは言えないだろうか・・・?(私的見解)

 

 

私たちは、「伝える為、受け取る為、生きているのだ」

拒否してはいけない。生きることに意味が在るとすれば

 

それはそういう事なのだから・・・・・。