ネトウヨさんフランス化計画(N・F・P)trois | Saor Eire! Saor Okinawa! weapons don't kill,PRAY FOR GAZA!!

ネトウヨさんフランス化計画(N・F・P)trois

え~、キャバクラ通い体調を崩しまして一日休んだんですが、こりずにN・F・P第三弾逝きます!

さて、前回はネトウヨさんがケチをつけてるのは英米型の「人権」であっておフランス型の「人権」は違うのですよ、というお話だったんですが、実際どのようにこれが違って、なおかつどのようにネトウヨさん向きか?ということをご説明いたします。


【受動から能動へ】


昨今のイラク戦争を見るにつけアメリカの人たちがなぜこうまでこの戦争に熱いエールを送ってるのか?ということを考えてみますと彼らの多くが


テロに遭わない権利(言い換えると「テロ攻撃されない権利」)

が自分達にはある、という前提のもとでその権利を行使するためにイラクに派兵を是としてるように感じます。

正直言って英米型の人権といいますとどれもこれもがこの



「されない権利」


ばっかりのように思えてくるんですよ。つまり内容が行動の受け手サイドから書かれてて受動的な感じ。


ところが前回も話した通りフランスという国は革命という極めて能動的というか犯罪的(少なくとも道徳的には罪です)とも言える手荒い手段で近代化を推し進めて来たいわば



能動的国家



でして、それ故罪を数々犯し失敗もし、婚外子も数多く生産しちゃいました。

でもそれらは全て人間が本来持っている



「する権利」


をひたすら行使してきた結果でして、「人間本来のあるべき姿」を模索しているが故のことなのです。

(もちろん公共の福祉に反するような場合は制限されますよ)


そして英米型の「されない」権利を求める心理というのが「傷つきたくない」という欲求からくるもので、コレ自体は別段問題ないかと思われますが・・・しかし!


フランスの文豪スタンダール(ナポレオン軍に加わった元祖右翼!)というモミアゲの長いオッサンが「恋愛論」という無茶な随筆でこう仰っておるんですよ



「恋愛とは戦争である」



コラコラ!上の文章見て読むのをやめようとか思うんじゃない!これは恋愛相談の話とちゃうで。

このオッサンが一体何を言わんとしてるかというと



「人間なんてお互い傷つけあうもんじゃないか(だから戦争はなくならない)」



ということなんですよ。このオッサンというのが松本零士の「キャプテン・ハーロック」よろしく酒と女と戦争をこよなく愛するキザな軍人さんなので興味のある方は是非その思いのたけを書き綴った諸作品に触れてみることをオススメします。文章はあまり上手じゃないけども。



おっと話が脱線しましたが人間がお互い傷つけあう存在であると定義するならばですよ、そもそも「傷つけられない権利」なんてものは存在しない!実際この「傷つけられない権利」のおかげでイラクでは何万もの人間が死んでいるわけなんです。


で、する権利といっても無制限ではないので「する権利」に「しない義務」をセットにした大人の「人権」意識があるわけなんですな。


さて、ここで話を日本にかえるんですが、日本の法律の中の「民法」という個人と個人の問題を扱う法律なんですがこれを考えた人はボアソナードというフランス人でフランス民法からの影響が非常に濃いとされてるんです。

これは日本人が本来フランス人の「人と人との関係」について鋭い視点を持っていることを昔から認めていたことの証左で、なおかつフランス型の「人権」とその他もろもろの思想に親しみやすいことの証左でもあるかと。



そして、ここからが最も重要なんですが、皆さんそもそも「人間としての権利に対立するもの」って何か考えたことありますかね?


差別、偏見、無知、暴力?貧困、環境破壊、戦争、テロ?


でも思想とかイデオロギーとかいうテーマで「人権」を扱うとなったら恐らくこれが一番の敵として挙げられるんぢゃないかと。


合理主義


そう、なんでも合理的か否かで物事を判断してしまう思想ですよ。これにかかったら大方の人権は制限されてしまうんですよ!(もちろん人間以外のものに適応するのは構わないが「人事」みたいに間接的に人間に適応することも可能だから厄介だ)


はっきり言って人間の欲求に合理性のあるものなんて何にもない!!


しかしだ、この合理主義をマキシマムに推し進めなければ今の世の中経済成長はないし、先進国の仲間入りもできないわけだ。


そんなわけで合理主義マキシマムで何事も行いたい政府なり企業なりにとっては「人権」というのは

「される(されない)権利」だけにしてほしいわけなんですわ。


だって「される権利」を享受しようと思ったら「”すること”を放棄する義務」が当然付いてくるんですよ。わかります?

「される」つまり受身なわけだから当然行動の主体になってはいけないわけ。常に受身でないとダメということね。



さて、ここで話を強引に先に挙げたヘンな右翼のオッサンのスタンダールに戻しますぞ。

このオッサンは晩年は「幸福の追求」というのを人間の行動原理として挙げておるんですわ。

で、日本の憲法を見てみるとこの「幸福の追求」を扱った項目があるんですよ!

憲法第13条

すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由および幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、
最大の尊重を必要とする。




そもそもこういう権利ってのが実は日本でも憲法で保障されてるんだね、スタンダールさんも恋愛について暴論を吐くだけのキチOイ色ボケ右翼ではない、と。




【結論】



英米型の「人権」は「傷つかない権利」を保障するために人間に「する権利」を放棄し「受動的」であることを要求する

だが、上の「人権」は「人間は(主体的に)傷つけあう生き物である」という前提を欠いているため理想論にすぎない


また、主体性を欠いているためにヒューマニズムとは相反する合理主義に逆らえない



そもそも人権を掲げる本来の目的である「幸福の探求」あるいは「本来の人間のあるべき姿の探求」を放棄しかねない、この権利は日本国憲法13条でもキチンと保障された由緒ある権利である



よって、人権思想の原点に今一度立ち返り、能動的人権思想にシフトすることが21世紀の人類の最初の課題かと思われる







ってなことになるかと思いますよ。

ね、同じ人権思想同士でもこうやって戦わすことができるんですよ。しかも、「戦争も(人間だから)止むを得ない」という風に完全には否定してないし、例え良くない行動でも自らの欲求を満たすために行動することそれ自体は否定していない。



ネトウヨと呼ばれる人たちの「人権」に対して嫌悪感を示す気持ちはわかるんですが、そこから「反人権」というところに話が行っちゃうと「ああ、そうですか」で話が終わっちゃうんですよね、実際。

で、こんな風に新たな可能性を見つけ出してみる、っていうのも一つの手だと思うんですけどね。



さて、次回はフランスの知られざる(?)規制大好きガチ保守の顔を特集いたします。それではAu revoir!