今日は体力のない日であり、いつもならとっくに寝る時間ですが

三島由紀夫に関する書籍を読んでいました。

 

 

 

 

かいつまんで読んでいたところ、気になる個所がありました。

 

 

 

そこで考えたのですが

 

自然栽培の家庭菜園を、「武士道」のように考えたら、

何道でしょうか。

 

 

 

私がやったことがある「〇〇道」は

 

書道(小1~中3の9年間)と、柔道(高校の部活3年間)です。

 

日本の「〇〇道」って、何だろう…

 

 

 

 

 

最近の日本は無くなる、とも言われています。

 

 

私の想像では、

 

きっと、日本は土地が比較的豊かな場所があるから

 

微生物と共に繁栄しようというのでなく

 

土地を横からかっさらって、自分のものにしよう

 

愛して大事にしようとしていないような人達が(今の日本人も、似たようなものかもしれませんが、、)

 

何かに託けて合法的に奪いたい人達が、居るのかもしれませんね。

 

 

 

もしもどうしても日本が無くなることが避けられないのなら、

悲観するのではなく

できるだけ世界のためになるような無くなり方がいいんじゃないかな
…自死や自爆、自滅という意味ではなく

 

今の戦争多々の世界の方向を変えられるような、

 

自己犠牲によって、今の方向性を変えられるために何か

できることはないかな…

 

勿論自尊のため、今も草を育てる等していて、抗うけれども

 

世界の平和に寄与するための知らせとなって無くなるとしたら、

どんな無くなり方だろうかと

想定してみるというか。


世界の戦争を止めるための一助となって無くなる方が、

死後もたましいが存続するという神道的な生き方を考えると

喜ばしいのではないか…

 

日本を外側から無くしたい人達にとっては、

世界のために死ぬこともあるかもしれないという人は

 

鉄でできた武器をとったり兵士になって、騙されて都合よく無駄死にするよりも

 

一番恐ろしい人たちなのではないだろうか。

 

等、考えていました。

 

 

 

武士道と軍国主義は違う、という三島由紀夫の残した言葉。

 

お金も食料も、武器化(相手を痛めつけようとする使い方)は間違いで、

 

ドルも武器化したから滅びようとしており

 

結局力づくで領土を奪っても、

 

騙して奪っても(騙される方にも問題がありますが)

 

こっそり奪っても

 

 

 

皆に嫌われる国になり、嫌煙されるようになれば、

 

自ら衰退しますからね…

 

 

 

武器は、魂があってこそ、ということでした。

 

そして、核のような「架空の武器」は、要らない。

 

 

 

たましいが、個人レベルで失われてしまっている、日本。

 

個人が取り戻すべき、何か。

 

武器化ではなく、清々しく生きるための道。

 

 

 

武器がなくても闘うためには

 

3つすべてが必要だと言う、


自己尊重」、
自己責任」、

特に「自己犠牲の精神(利他とも言い換えられるか、誰かのため)」

 

これがあってこそ、武士道…

 

日本人の誇りやたましいとも言うべき、何か。

 

 

 

 

闘うための「何か」と、「魂」が繋がって居れば、いい

 

それは、すぐに使える「もの」でなければならない


(書籍の中では「日本刀」、という表現でしたが、

日本刀そのものが必要なわけでもない)

 

 

ということは、個人の扱える身近なもの

 

思い入れのあるもの(私の場合、家庭菜園)を

 

武器化せず、繋がり、

自己犠牲の精神を伴って、大いに利用すること…?

 

 

 

我が身を犠牲にしてでも守りたい何かのために、今を生きる

 

 

 

核のように、ハッタリ、脅し 

 

架空のものでは、ならない

 

 

 

 

 

そんな内容?でした。

 

 

「脅し」喧嘩腰は確かに、もう闘ってますものね。

 

 

 

 

話が前後しますが、

 

足がしびれて正座が苦手なまま、週1書道をし

 

 

 

私は運動音痴ですが、

 

高校生の部活は、ほぼ毎日授業後に参加していたような…?

 

柔道部(神学校の、細い人も多い部でした)には、

健康にいいという張り紙を見て、何となく加入しました。

 

女子柔道部は私も含めてプレイヤーが3人、

私は一番小柄で、他校との試合だと先鋒、

ひたすらもろ手背負い投げの練習をしていて

寝技抑え込みくらいでしか勝てない

女子マネージャーの一人が筋トレして50キロバーベルを上げ下げしているような、部でした。

体力は結局あまり付きませんでしたが

 

 

とにかく、

 

柔よく剛を制す(柔よく剛を制すとは、柔弱なものが、かえって剛強なものを負かすことが、

攻撃的なものではないということは、何となくわかる気がします。

 

武道は、攻撃的な気持ちでやるものではない、のです。

 

 

無心に近い、と思っています。

 

礼があり、作法があり、型がある。

 

相手を負かす必要がありますが、

 

殺したり憎んだり恨みをかうためのものではない。

 

 

負けないためのもの、

 

立ち向かっていくためのもの、

 

闘うためのものである…

 

 

 

もし相手が、女子供も武器に使うような

 

卑怯なやり方で攻めてこようとしていた場合

 

時間が経てば自滅すると思われますが、

 

 

自己犠牲の精神と、今の家庭菜園の生活を

 

どう結び付けて、自分の生き方とするか

 

また考えてみようと思います。