さてさて引き続き
稲荷と秦氏の関係を考えているところです
ウィキペディアによれば
殷末の帝辛(紂王)時代の官僚
悪来の子孫が春秋戦国時代の秦の祖になった
といわれているらしいです。
殷の干支システムを引き継いでいるかもしれません。
日本への伝播はどうでしょうか
下記WEBサイトによれば
岡山県総社市「秦の郷」 | 古代の先進地域 (kibinosato-hada.com)
日本書紀で伝えられるところによると、
応神天皇の時代に秦(しん)の始皇帝の子孫である
「弓月の君」が百数十県の民、数万人を率いて、
百済から渡来してきたという。
秦氏(はたし)の研究で発掘された遺跡には新羅系の物が多く、
日本書紀が新羅を百済と間違えたとするのが定説である。
(引用終わり)
と書かれています。
渡来した時期はウィキによれば応神天皇14年。
西暦(ユリウス暦)283年の干支をウィキで見たら
癸卯年。
たまたま今年(2023年の立春~2024年節分まで)
の干支と同じですね
そういう意味では
卯年は弓月の君の一族にとっては
とても大事な干支なのかもしれません。
宇佐八幡でも卯の日は大事にされているようですし
住吉大社にも卯の葉神事があります。
もちろん、後世では卯は稲穂の意味も加味されるでしょう。
春の一番極みです。
稲穂が繁るイメージもわきますね。
新羅なのか百済なのか
その辺りは沢山の民衆がどのように当時の時代に
境界を行き来したのか、もっと知りたいところです。
大陸として繋がっている以上、さまざまな混血が
あったかもしれません。
卯の日についての行事に関しては
この弓月の君の話につながっているのかも
しれません