昨日は午前中に起床して、ホテルをチェックアウト。


タクシーで新神戸駅へ向かい、新幹線で帰京して、一旦帰宅。


スーツに着替え、事務所へ出向きました。




そして、4時より記者会見。




元々かなり緊張していたんだけど、冒頭で菅林社長から大きな花束をプレゼントして頂いた瞬間、頭の中が真っ白になってしまいました。


最初に考えていた言葉も完全にトンでしまい、自分でも何を言ってるのか分からない状態。


多分、同じような台詞を何回も言ってしまったような気がします。






自分の口から様々な説明をした後、マスコミの方との質疑応答。


ここでも何を答えたのか、いまいち覚えていません。




会見終了後、またマスコミの方の前で、囲み取材。


ここで、少しだけリラックスできました。






その時の質問で
「今回は、新日本に骨を埋める覚悟ですか」といったような言葉を投げ掛けられました。


その質問をした方の真意は定かじゃないけど、やはり、“あっち行ったりこっち行ったり”という印象を持ったのでは…と思います。




でも、実際にそういう行動を取ってしまっているのだから、そう思われても仕方がないというか、それが普通の感情だと思います。






ただ、最初に新日本に入門した時も、全日本に入団した時も、その時は「骨を埋める覚悟」をしました。


辞める事を前提として入門した訳じゃないし、移籍した訳じゃないから。




実際に、最初にいた新日本での十年間と、全日本にいた八年間の時間は、どちらも自分にとって同じくらい重要な時間だったと思っているので。


じゃあ何故辞めるんだ?と言われれば…新日本を最初に辞めた時は、武藤さんから「俺と一緒に頑張ろう。お前が必要なんだ」と誘って頂いたのがキッカケでした。


あの武藤さんが、自分みたいな人間を必要としてくれた事が衝撃的でした。


テンコジでタッグリーグ戦を優勝して(2001年)、わずか数日で話を受けたので…迷いに迷いました。


「三日で結論を出してくれ」と言われたのを一週間に延ばしてもらい、熟考の末、退団する事を決意しました。


当時の新日本は格闘技路線だったけど、それはそれで…自分にしかできない役割もあると思っていたから、その路線が不満で退団した訳ではないです。


決め手は本当に、武藤さんからの誘いという事だけでした。




そして、全日本に行った時は、もう若手選手じゃなかったので、様々な感情の中で生活しました。


良い事も悪い事も経験したけど、今言えるのは、武藤さんのお陰で本当に素晴らしい時間を過ごさせてもらえたという事です。




実際に、シングルプレイヤーとして確立できたのは、全日本時代があったからだと断言できます。


いろんな実績も手に入れる事ができたし、何よりも、試合のスタイルを変える事に成功しました。


それまでは、最初から全力疾走で、技の組み立ても考えず、序盤からラリアットを連発するスタイル。




それが、全日本でたくさんの貴重なシングルマッチを経験した事によって、気持ちに変化が出てきました。


武藤さん、川田さん、天龍さんとの試合は、どれもまだ強烈に、胸に焼き付いています。




あと、スタンハンセンさんと出会えたのも、全日本にいたから実現できたと言えます。


ハンセンさんからラリアットを直接指導して頂いた時、オレは世界一の幸せ者だと思いました。




だから当然、全日本にも強い思い入れがありました。


全日本のファンの方からも応援して頂いたし、自分自身も、事ある毎に「オレは全日本の小島だ」とアピールしてきました。






じゃあ何故また退団?
と言われれば、去年の頭頃に遡ります。


武藤さんとの話し合いの中で、いろいろとありました。


どんな話し合いがあったかは、やはりここでは話せません。申し訳ありません。


ただ、今でも良く言われている金銭面の問題とか、待遇面の問題ではないです、本当に。




そして、契約更改の時に、旅立つ事を決めました。






あと、これも良く言われましたが、「新日本に移籍する予定があったから全日本を退団」したのではありません。


G1クライマックスに出場したのも、たまたまのタイミングでした。




でも結果的に、G1出場が、その後の自分の運命を変えたのかなとは思います。






話が反れましたが、会見が終わり、安堵とは違った不思議な感覚に陥りました。


所属になったから安堵ではない…と思っているし、逆に所属だからこそ厳しくなったと感じています。




だって、新日本プロレスですから。


期待と不安…


いや、本音を言えば、不安と不安しかない現在。




とにかく、精一杯やり抜くだけです。