神社巡り 川勾神社・六所神社ほか」「神社巡り 平塚八幡宮・深見神社ほか」の2つの記事で相模国の延喜式内社巡りが完了したということを書いた。

 

今度はその記事内でも触れている武蔵国の延喜式内社巡りについてである。要するに、武蔵国の延喜式内社の巡拝が完了したのである。

 

武蔵国とはおおよそ現在の東京都、埼玉県、横浜市・川崎市に相当する。

 

今回の記事では、武蔵国の延喜式内社巡りが完了する直前に訪れた式内社の紹介と併せて、延喜式内社巡りの世界について書いてみたいと思う。

 

このテーマは少し話が長くなる。いつものように、巡ってきた神社の紹介もするのであるが、この記事は最初であるので延喜式内社の説明等をメインにしたいと思うのである。

 

まず、「延喜式内社(えんぎしきないしゃ)」あるいは「式内社(しきないしゃ)」と呼ばれる神社について、復習しておこう。

 

平安時代に、延喜式(えんぎしき)と呼ばれる律令制度の細かな規約が定められたものが成立した。西暦905年に編纂を開始して927年に完成したのだが、実際に施行されたのが967年という非常に気の長い話である。

 

延喜式は全50巻から成るという壮大なものであるから、時間軸の長さについては少しだけ理解は可能である。とにかく、すごいものなのである。

 

そして、延喜式の中には国家祭祀についても定められており、巻9と10には国家の保護を受けた神社の一覧がある。これを特に延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)と呼び、この一覧に記載されている神社を「延喜式内社」または単に「式内社」と呼ぶのである。

 

1000年以上前の時代の公式の神社リストである。つまり、式内社は最低でも1000年の歴史がある。実際には1000年前には既に国家の保護を受けるほどの神社になっていたということであるから、神社の創建はもっと古い神社もたくさんあるのである。

 

延喜式神名帳に記載されているのは、3132座、2861社である。

 

式内社に興味がある神社マニアは、この「座」という呼び方を非常に好む。私にはなぜだかわからない。現代ではほとんど意味がない概念だからである。

 

今回の記事で焦点を当てる武蔵国においては、式内社は44座である。これはどのような意味になるのであろうか。

 

実は、「座」という概念についての明快な解説を読んだことがないのである。

 

それでも調べたところ、「座」というのは神社の御祭神を数える単位ということになる。

 

一般的に神様を数える単位というのは「柱」である。「ひとはしら」「ふたはしら」と数える。実際、2柱の神を祀る「二柱神社(ふたはしらじんじゃ)」というのが仙台市などに存在するし、長野県松本市には「四柱神社(よはしらじんじゃ)」がある。

 

では、「座」というのは何か。「柱」とどのように異なるのか。

 

「座」というのは、神様を重複して数える「延べ人数」のような概念である。

 

日本全国にある式内社には、当然同じ神様を祀っている神社もある。ここで「座」の場合には、例えばA神社の御祭神のスサノオとB神社のスサノオとC神社のスサノオは全て数えてしまい、合計3座という数え方になるのである。

 

「柱」の場合には神様の実体を指すと思うので、このような用例はないと思われる。

 

文字通り、神様が座る椅子のようなものが神社ごとにあり、それを全て数えるのが「座」である。

 

ここまでを理解したところで、もう一度、延喜式神名帳に記載されているものの数を見直してみると、3132座、2861社である。

 

これは現代の感覚からすると非常に驚くのではないだろうか。「座」も「社」も、数としてそれほど変わらないからである。

 

現代では複数の神様を祀る神社など全く珍しくない。というよりも、複数の神様を祀る神社の方が多いのではないだろうか。

 

しかし、延喜式が成立した平安時代では、3132座、2861社である。ということは、ほとんど1つの神社に1柱の御祭神を祀るというのが圧倒的に多かったということが想定される。

 

今回のテーマの武蔵国となると、延喜式内社はなんと44座、43社なのである。前玉神社(さきたまじんじゃ、前玉は「さいたま」の由来となった地名)のみが1社で2座、それ以外は全ての神社が1社1座なのである。

 

もちろん、これらの式内社も現代ではもっと多くの御祭神を祀っていたりする。あくまでも、当時は1社1座の御祭神に近かったであろうという話である。現代では様々理由によって、後から別の神様が相殿で祀られたりするようになったということなのである。

 

・・・と、このように延喜式内社の解説をしだすと、非常に話が長くなるので、今回はほとんど武蔵国式内社の紹介はできずに概論で終わってしまいそうなのである。なぜなら、まだまだ話は続くからである。

 

式内社は大社と小社に分類される。大社は式内社の中でも上位の格付けということになる。大社の中で特に国家的な祈願を行う名神祭(みょうじんさい)の際に対象神社となったものを名神大社(みょうじんたいしゃ)と呼ぶ。

 

武蔵国の43社の式内社の中で、大社はたったの2社のみ。武蔵国一宮の大宮氷川神社と二宮の金鑚神社(かなさなじんじゃ)である。どちらも名神大社。

 

武蔵国における一宮制度の序列は時代によって入れ替わった可能性が高く、当初の一宮は小野神社、二宮はあきる野市の二宮神社と言われている。この時、大宮氷川神社は三宮、金鑚神社は五宮とされる。

 

しかし、延喜式神名帳における武蔵国の名神大社は大宮氷川神社と金鑚神社の2社しか存在していなかったという事実は重い。この2社は元々の格付けとしては小野神社よりも上位だったのである。

 

さて、相模国の場合には式内社が13社しかなく、上総国に至ってはたったの5社しか存在しておらず、私がこれまでに巡拝を完了したのはこの2つの旧国のみだったということだった。

 

そして、今回、武蔵国の式内社の巡拝が完了したのだが、武蔵国の式内社は43社である。

 

ところが、43の神社に参拝すれば完了とはならないところが式内社巡りの奥深いところである。

 

なぜかというと、式内社というのは1000年前の話であるので、延喜式に記載の神社が現代のどの神社なのかは簡単に確定できるものではないからなのである。

 

例えば、延喜式神名帳の武蔵国の最初の部分には、荏原郡(えばらぐん)の式内社として薭田神社というのが記載されている。当時の読み方だと「ヒエタノ(じんじゃ)」というようである。ともかく、武蔵国荏原郡のところに薭田神社というのが記載されている。これは現代ではどの神社を指すのだろうか。

 

まず、そのままの名称の薭田神社(ひえたじんじゃ)というのが存在しており、これも有力候補である。しかし、唯一の候補というわけではない。

 

ほかには、六郷神社(ろくごうじんじゃ)、御田八幡神社(みたはちまんじんじゃ)、鵜ノ木八幡神社(うのきはちまんじんじゃ)などが候補として存在している。

 

神社というのは長い歴史の中で統廃合があったり、名称変更があったりするし、御祭神が増えたり変更になったり、場合によっては遷座(神社の移転)もあり得るので、どの神社が本当の式内社なのかを簡単に確定することが困難なことが多いのである。そもそも、延喜式神名帳に記載の情報が○○郡××神社程度のものだということもある。当然、現代の住所のように鎮座地が正確に確定できる情報など存在しない。

 

延喜式に記載されている薭田神社に対して、この場合4つの候補社が存在しているわけである。このそれぞれの候補社を論社(ろんしゃ)と呼ぶ。議論の対象となる候補社なので論社と呼ぶと思われる。

 

延喜式内社に関して、比定社(ひていしゃ)という概念もある。ウィキペディアによれば、「現代において、延喜式に記載された神社と同一もしくはその後裔と推定される神社のことを論社(ろんしゃ)・比定社(ひていしゃ)などと呼ばれる。」となっており、論社と同じ意味で比定社という言葉を使う用例があるようなのであるが、私からすれば極めて気持ちが悪い言葉の使い方である。

 

あくまでも私の個人的な意見であるが、以下のように言葉を使っていただきたいと思う。

 

論社は、ともかく式内社の候補となる、議論の対象となる神社のこと。

 

比定社は、専門家の比較調査の結果、本物の式内社である可能性が高いと推定された神社のこと。

 

比定とは、比較調査することによって推定することなので、ある程度「本物認定」された論社を比定社と呼ぶのが筋であると私は思っているのであるが、世間的な比定社の意味は曖昧であり、もっと言うと意味不明である。

 

全く同じ意味なのであれば、「論社」と呼ぶ方が明快であり、「比定社」という言葉を持ち出すメリットがゼロだからである。

 

延喜式内社というのはある種のステータスである。そのステータスを得たいがために、ほとんど根拠がなくても、神社の宮司や氏子が自分のところの神社こそが式内社であると主張し始めてしまう場合もあるのである。それでも、それを否定できる強力な根拠がなければ、その神社が式内の論社になってしまうこともあるのである。

 

このように、論社というのは、本物である可能性が高いものから、中くらいのもの、非常に低いもの、バカバカしいくらいあり得ないものまで、さまざまなものがあるのである。しかし、全て一応は論社と呼ぶことができるのである。

 

「比定社」という言葉を「論社」と全く同様に用いる用例の場合、このような根拠がほとんどないものも「比定社」と呼ぶことになってしまう。

 

「比定」というわかりにくい言葉を使用することによってこのような事態になるくらいなら、「認定社」「推定社」とかほかの言葉を使えばよいのにと思う。少なくとも、単なる候補社とは異なる意味で、「本物の式内社と推定された神社」の意味を持たせた言葉を別途使うのが便利である。

 

そういうことで、私は専門家やマニアが好む「比定社」という言葉が嫌いであり、原則使用しない。

 

話をもとに戻そう。

 

延喜式に記載されている武蔵国の式内社自体は43社であるが、それぞれ現代においてどの神社を指すのかが確定できるとは限らず、候補社がたくさん存在する式内社もあるため、実際の巡拝においては80社くらいを巡って初めて武蔵国の式内社巡拝が完了となるのである。

 

この約80社というのは私自身の場合の実際に巡った数であり、実は論社というのはもっとたくさん存在していて、世の中に存在する説を全てカバーしようとなると、まだまだ終わらないのである。しかし、私は延々キリがないお遊びをするのも興味が無いので、適当に自分で打ち切っているということである。

 

こういうところが武蔵国の延喜式内社巡りの非常に奥が深いところなのである(笑)。

 

さて、必要な知識の解説が一応は済んだので、やっと私の武蔵国式内社の巡拝の話である。

 

相模国の式内社13社の巡拝が完了した時点で、武蔵国で訪れたいと思っていた式内論社のうち未訪問の神社はまだ15~20社くらいあった。

 

これを3回の日帰り神社参拝に行った後、最後に1泊2日の旅行で未参拝の式内社が数多く残っている地域を巡って、一応巡拝達成ということになった。

 

式内社というのは有名神社ばかりでないことは相模国の記事に書いたが、それでも相模国の式内社は13社しかないこともあって、平均して郷社から県社くらいの社格であり、それなりに良い神社が多かった。

 

ところが、武蔵国の場合には、とにかく数が多いこともあるし、根拠が薄くても論社になっている神社が多いということもあって、少なくとも未訪問で残っている式内論社については、平均しても村社格程度の神社ばかりである。

 

マニア以外にとっては無名の神社ばかりであるだけでなく、非常に地味なのである。そして、未参拝の式内論社は交通の便が悪い地域にも多く存在している(だから未参拝なのだが)。

 

これを巡拝することが、本当に楽しいことなのか、自問自答してしまうことが予想されるのである。筋金入りの神社マニアであっても、長時間歩きまわって式内社巡りをしていると、「自分はなんでこんなことをしているんだろう」と思ってしまうかもしれないようなものなのである。

 

私の場合も、そうなるかもしれない。それでも、武蔵国の式内社巡りというのは、ある意味では関東在住の神社趣味人(ある程度マニアックな人)にとっては一度は通る道。とにかく、やってみようということで、(長時間歩くことを)意を決して出かけたのである。

 

そして、どうなったのか。結果を言おう。

 

想像していたよりも、遥かに爽やかで楽しい神社巡りだった。来て良かったと思ったのである。だから、記事を書こうという気にもなった。最初はこんなマニアックなことは神社サイトにだけ書けばよいと思ったが、このブログでも延喜式内社巡りの世界を紹介してみようかという気になったのである。

 

多数の式内論社に参拝した1泊2日旅行については次回以降で紹介することにし、ここではその前に日帰りで行ってきた式内論社について紹介することにする。

 

なお、武蔵国の式内社の全体像、過去に参拝した武蔵国式内社の全てを紹介することは、このブログでは困難であるので私の神社サイトにまとめてある。最初に以下をざっと確認しておいていただくと、イメージがつかめると思う。

 

現代神名帳 武蔵国 延喜式内社

 

まずは、武蔵国多磨郡の虎柏神社の論社である、そのままの名称の虎柏神社(とらかしわじんじゃ)。東京都青梅市にある。

 

 

 

 

神気に満ちた社叢がもの凄い神社である。非常に感銘を受けた。

 

式内論社として名前は知っていた神社なのに、なぜもっと早く参拝に訪れなかったのだろう。参拝に来ようと思えば、特に困難もなく参拝に来ることができたのに。

 

5点満点の評価は4.0。最初にお断りしておくが、この記事と続編の記事で紹介する式内社のうち、最も私の評価が高い神社である。

 

おおよその目安として、評価4.0は一宮クラス、3.5が県社クラス、3.0は郷社クラス、2.5は村社クラス、2.0は無格社クラスと思っていただきたい。

 

当社は式内社であるから、関東在住の神社趣味人には知られている存在ではあるが、全国的には全く無名の神社であると思う。その神社の評価が一宮の平均である4.0なのである。

 

ちなみに、もう1つの虎柏神社の論社は過去に参拝済みであり、参考までに過去参拝時の画像を見ておこう。

 

 

こちらは東京都調布市の虎狛神社(こはくじんじゃ)。

 

今画像を見ると、予想に反して結構良い神社に見えてしまった(笑)が、評価は2.5-であり、正直に言えば、ちょっと格が違うという感じである。しかし、近代社格では同じ郷社、そして、式内についても同じ式内論社として扱われる。

 

参拝体験から言えば、青梅市の虎柏神社が圧勝なのであるが、だからといってこちらが式内社であると断言できないところが難しいところである。とはいえ、参拝体験は無視はできない。式内社としての信憑性を左右する、1つの要素ではある。

 

次に、別の日に足立郡足立神社の2つの論社に参拝に行った。

 

 

 

こちらがさいたま市西区飯田の足立神社。境内が美しく整備されており、地域の信仰が篤いことが伺える。

 

1枚目の画像のように、鳥居を入って拝殿を直視した時に感じる気に力を感じる。評価3.0。

 

 

 

一方、こちらがさいたま市浦和区上木崎の足立神社。

 

こちらも境内の緑が美しく、なかなかである。画像は省略したが、結構長い参道があり、その最初の部分には「延喜式内 足立神社」の社号標がある。

 

ただし、社号標には延喜式内の文字があるものの、由緒書では一切触れていない。さきほどの飯田の足立神社の由緒書には詳しい神社史が書かれているので、そういった意味では信憑性に疑問がある。

 

神社評価としては3.0-で近代社格が村社であることを考えれば結構な高評価なのであるが、式内論社としては飯田の足立神社が優勢であるとの印象。

 

さらに、別の日に埼玉郡宮目神社の2つの論社に参拝に行った。

 

 

 

 

1つ目の論社が姫宮神社(ひめみやじんじゃ)。東武伊勢崎線に姫宮という駅があり、それが最寄駅である。

 

画像ではわからないが、境内に入るときには、かなり寂れてしまった神社だという印象を持った。しかし、時間が経つにつれて印象が良くなってきて、評価は3.0。

 

2枚めの画像の構図が好きである。気持ちの良い開放感と、樹木が与えるやや独特な印象が良かったのである。

 

もう1つの宮目神社の論社は玉敷神社(たましきじんじゃ)という神社の境内社としての宮目神社である。なお、玉敷神社自体も式内社である。

 

このように、延喜式に記載されている神社が現在まで存続しているとは限らない。廃絶になれば、別の神社に合祀されることがあり得るわけである。そして、合祀の場合も主祭神と相殿となるケースも考えられるし、境内社として祀られるケースも考えられる。

 

玉敷神社は近代社格が県社でもあり埼玉県内ではそこそこの知名度の神社なので、参拝経験があって今回が2回目。ただ、当時は式内社についてそこまでのこだわりがなかったし、もう昔のことなので境内社の宮目神社の記憶がなかった。今回は確実に式内論社である宮目神社に参拝して、写真も撮っておこうということである。

 

 

まずは玉敷神社の美しい境内風景。記憶よりもずっと素晴らしい神社でびっくりした。

 

調べてみると、ちょうど5年ぶりの参拝だったようだ。記憶というのはそれほどまでに儚いものであるが、良い方向に予想を裏切ったので良かった。

 

この社殿の右奥に式内論社であり境内摂社である宮目神社が存在する。

 

 

 

これが宮目神社。

 

前回来た時に参拝していたのかが心配だったのだが、境内を歩くうちに前回参拝時の感触が蘇ってきて、前回も確実に参拝していたことがわかった。

 

前回参拝時の写真には宮目神社の写真がなかったため確信が持てず、宮目神社の有力な論社に参拝していなかったとなると嫌なので、念押しであらためて参拝に来たのだった。

 

長くなったので、今回はここまでにしたい。次回は埼玉県北部、熊谷周辺と神保原周辺の武蔵国式内社を紹介したい。

 

-----

過去記事はこちらからどうぞ。

記事目次 [スピ・悟り系]

記事目次 [神社巡り]