同じテーマの過去記事は以下を参照していただきたい。
■ありがとうと天国言葉
■ありがとうと天国言葉(2)
■ありがとうと天国言葉(3)
私はアセンションのプロセスを完了した後、あらゆる霊的修行からの卒業を女神様たちから言い渡されたのであるが、諸般の事情により、今再び霊的修行をしている。
これが記事タイトルのように「ありがとうと天国言葉」というテーマでもあるのだが、実は瞑想に関するテーマでもある。従って、「ありがとうと天国言葉(5)」の記事であると同時に「マインドを鎮める(3)」的な記事でもある。こちらのテーマの過去記事は以下を御覧いただきたい。
過去記事「ありがとうと天国言葉(3)」の中で、「ありがとう」や天国言葉などをマントラ的に繰り返し唱える霊的修行、あるいは願望実現法的なものにおいて、最も効果の高い言葉の唱え方は「瞑想状態で心の中で唱える」という話があった。
ただ、当時はそこまで瞑想に習熟していたわけではないので、そこまで本格的には実行したことはなかったのである。そして、その後私自身はあらゆる霊的修行からの卒業を言い渡されたわけであるので、瞑想に習熟した後はやっていないのである。
ところが、今回ある事情によって(ここでは具体的な事情は省かせていただく)霊的修行を再開したわけで、そこで始めたことが「瞑想状態でのありがとう行」なのである。今回は本格的に瞑想をしながらの「ありがとう行」なのである。
そして、これがもの凄くオススメなので、記事にしているという次第である。
「マインドを鎮める(2)」の記事で書いたように、純粋な瞑想において、1点集中型の導入手法を延々と続けるのは良くないと考えている。マントラをずっと言い続けるとか、音をずっと聞き続けるとか、光をずっとイメージし続けるとかである。
これらの導入はあくまでもマインドの活動を停止させた状態への移行が目的なのであって、ずっとやり続けると、その先にある涅槃状態(ここでは、瞑想における天国状態=あまりにも気持ちが良すぎて瞑想を終わらせたくなくなる状態)にたどり着かないと思われたからである。
ところが、実際に自分でやってみたところ、上級者であればこの壁をも乗り越えられることが判明したのである。いや、全ての上級者が乗り越えられるかは分からないが、ともかく自分ではできたのである。
何ができたのか。瞑想状態で「ありがとう行」を実行しながら、涅槃状態へ移行し、その状態を維持することができたのである。
通常の瞑想において、「あまりにも気持ちが良すぎて瞑想を終わらせたくなくなる状態」というのを涅槃状態と私は定義しており、この涅槃状態を味わえる、私が言っていることを実体験を伴って理解できる人を瞑想の上級者と定義している。
そして、今回さらにその上のレベルとして、「ありがとう行」をやりながら瞑想をして涅槃状態に移行できるレベルというのがあるということが判明したわけである。これを瞑想の超上級者の定義としてよいのかどうかは、まだ分からないが。
先ほど列挙したマインドを1点集中する瞑想の導入手法というのは、マインドにほかの活動(思考や連想ゲームなど)をさせないことが目的であるが、逆に言えば、その1点集中していることに対してマインドを使用している。だから、マインドを使用し続けている限りは涅槃状態への移行はできないと私は考えていたということなのである。
瞑想の極意を簡潔に述べると、次のようになる。
最初に導入としてマインドを何かに1点集中することによって、マインドに思考や連想ゲームをさせないようにする。そして、ある程度マインドが鎮まってきたら、今度はその1点集中をやめて、全体意識の気持ちよさに浸り、気持ちよさを感じ続ける。1点集中すらやめて、マインドの使用率を限りなく0%に近づけるわけである。これが私が考える瞑想の極意なのである。まあ、上級者になれば、最初の1点集中型の導入すら不要になってしまうのであるが、一応一般論としてはそんな感じである。
瞑想状態において「ありがとう行」をやるということは、1点集中型の導入と似ていて、マインドを動かすことなのである。だから、涅槃状態への移行の邪魔になる。
実はこれは瞑想においてよくある問題である「瞑想中にどうしても体が痒くなったら、体を掻いてもよいのか」「どうしても咳払いをしたい時にはしてもよいのか」という問題とも通ずる。
瞑想教室でこれらの問題に対してどのように教えるのかは知らないが、私の答えを書くと、これらはしてはいけないのではなく、これらをするとマインドが働いてしまい涅槃状態、あるいはその前段階としてのサマーディ状態への移行に不利になるという話なのである。大きくマインドが動いてしまうと、また最初からやり直し的なことになりがちだという話である。
マインドの機能を停止させたいのが瞑想なので、その目的からするとできれば避けたいものであるという意味合いであって、実際には私もその辺に配慮しつつも、体を掻いたり咳払いをしたりはする。
マインドが多少働いてしまうのだけれども、なるべくそれを最小限に抑えながら瞑想を継続するイメージである。
そして、瞑想状態での「ありがとう行」というのも全く同じ話である。「ありがとう行」をやるのだから、マインドが多少働いてしまうのは避けられない。しかし、それを最小限に抑えるのである。微かな、微かな思考で「ありがとう行」を実施するのである。
瞑想であり、かつ、涅槃状態に移行してそれを維持しようというのだから、95%くらいは全体意識の気持ちよさを感じている。そして、残りの5%以下で微かにマインドを使用して言葉を繰り返し唱えるというイメージになる。
「ありがとう行」の過去記事に書いているように、私は言葉を唱えた回数を記録している。当然、実践しながら数をカウントしなければならない。これも過去記事に書いたように、私は10回の区切りはリズムだけで分かるようにしているので、10回を1セットとしてその数をカウントしていく。100まで数えれば、言葉を1000回唱えたことになる。
これもマインドを微かに機能させて行うのであるが、あまりにも微かなため、何の工夫もしないと唱えた回数を忘れることが頻発する。そのくらい微妙にしかマインドを機能させない。数字を何かにリンクさせる記憶術みたいなことをしながら実施している。
そんな感じで、瞑想をしながら微かにマインドを機能させて「ありがとう行」を行うということは可能である。
もちろん、ここに書いたことを全く同じように実行できるのは瞑想の上級者以上に限られてしまうので、ほとんどの読者には「程度の違い」は仕方ないものとして考えていただきたい。
しかし、「程度の違い」は仕方ないと受け入れさえすれば、同じように瞑想状態で「ありがとう行」をすることは非常に有意義であると思う。
なにしろ、世の中に知られている限りで最も効果の高いありがとう行の実践方法なのである。
そして、ありがとう行というのはアファメーションのようなものであり、引き寄せのようなものであり、願望実現の手法の1つのようなものでもある。最初のうちは過去に自分が発したネガティブな言葉と相殺するだけなのであるが、数万回、十数万回と言葉を唱えて過去のネガティビティーを全て消し去った後は、純然たるプラスの効力を発揮するわけである。
願望を実現する能力は個人(マインド)にあるのではなく、神・創造主(全体意識)にあるわけなので、できる限りマインドが機能しない瞑想状態で言葉を唱えるのがよいということなのである。
どんな言葉を唱えるのかは、過去記事にたくさん書いたので、好きなものを唱えれば良い。ただ、お奨めがあるので、書いておく。
「神」「平安」「神」「平安」・・・
私が最近唱えている言葉の過半数はこれである。瞑想と一番調和するので、お奨めである。そして、「神」という言葉はほかの言葉よりもパワーが強い。
ほかの言語でもそうなのかもしれないが、日本語は特に主語がなければ1人称である。「神」=「私」である。本当の自分は神であり、創造主であると言っているわけである。
そして、神なのだから、当然何でもできる。「平安」の部分をほかの言葉に変えても、神だから当然実現できると思えるのである。
また、「神」は「かみ」と2音なので言葉として短いにも関わらずパワーが強い言葉であり、はっきり言うと時間効率が良い。ただし、瞑想中であるので、とにかく早く言うといった唱え方をしてはならない。ある程度ゆったりと(心の中で)唱える。でも、これは他の言葉でも同じことなので、やはり短い言葉は有利である。
「神」「平安」「神」「平安」・・・を数百回から1000回くらい連続して言うこともあるが、実際には飽きないように言葉を色々変えながら実施している。
ありがとう行についても、瞑想についても、あまり厳密なルールで自分を縛らないほうが良い。「瞑想中に体を掻くことを禁止」などとすると、気持ち良いはずの瞑想がガマン大会になってしまったりして本末転倒である。
こういうものは続けてこそ価値があるものなので、どうやったら挫折せずに続くのかを工夫するというところも技のうちである。あまり気負わずに淡々と続けられるように自分のルールを考えていただきたいと思う。
少し余談っぽくなるが、この記事を書いていて思い出したのが、京都にある百万遍(ひゃくまんべん)という場所のこと。正式な地名ではないそうであるが、百万遍というバス停や交差点が存在する。
私は中学生の時から京都に一人旅するような子供だったので、百万遍という名前はその時から知っていて印象深かった。
さて、「百万遍」とは何なのだろうか。何かを百万回やったのだろうか。
これは西暦1331年に疫病が流行ったときに、知恩寺(知恩院とは別)の善阿空円(ぜんなくうえん)上人が念仏を百万回唱えたところ疫病が収まり、後醍醐天皇から百万遍という号を賜ったのだそうである。それで知恩寺のことを百万遍というのだそうである。
7日間のうちに百万回念仏を唱えると祈願が成就するということが言われているそうだが、実際に7日間で100万回唱えるには1秒間に2回近く不眠不休で唱えなければならないことになり、本当かどうかは疑わしい。少なくとも常人には全く不可能である。
この念仏は「南無阿弥陀仏」だと思われる。これなら、少し長い言葉を唱えているくらいなので、ありがとう行とも通ずるものがある。
何が言いたいのかと言えば、常人には7日間で100万回唱えるなど全く不可能であるが、一生のうちに100万回唱えるくらいで充分であり、やる気がある人なら数年で100万回唱えるくらいの実践で十二分だということである。そして、そのくらいの実践で間違いなく効力は発揮されると思われるということである。
私のありがとう行の実践回数は現在54万回強であり、近い内に60万回台に持っていきたいと考えている。本来、私は霊的修行から卒業しているので、現在の特殊な事情が解消されればやめてしまうかもしれないが、それでもポジティブな言葉をこれだけの回数唱えているということを知っていただきたいと思って、具体的に書いているのである。参考になれば幸いである。
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