同一テーマの過去記事は以下を参照。

マインドを鎮める
 

瞑想は悟りへの道において最もメジャーな霊的修行ではあるが、瞑想を全くしないで覚醒に至る例も稀にある。その意味では、覚醒に至るまでの期間においては瞑想は100%必須ではないとも言えるのだが、ここで瞑想をする習慣を付けることが大変重要である。

なぜならば、まず、瞑想をしないで覚醒に至るのはあくまでも稀な例であること。そして、瞑想なしで覚醒することがたとえできたとしても、瞑想なしでアセンションすることはできないからである。

女神様たちはそのように言っているし、アシュタールも「アセンションするための鍵は、瞑想、瞑想、瞑想」と言っている。

同一テーマの過去記事にあるように、覚醒以前の修行時代には座って目を閉じる通常の瞑想はかなり難しいと感じていた。そのため、これまでは通常の瞑想をあまりやってこなかったのである。代わりにやってきたことが同記事に書いてある「短時間の無思考状態をつくる」という方法。

私が知る限りでは、私以外にこの霊的修行を奨めている人も実行している人もいない。たぶん、私のオリジナルだと思う。そして、超お奨めの瞑想方法である。

瞑想の初心者~中級者くらいだと、数十分続けて通常の瞑想をしてみたところで、どちらにしても雑念に悩まされる。初心者なら8割以上の時間が雑念との戦いかもしれない。だったら、「長時間連続してやる」ことにこだわらなくてもよい。数十秒~2分程度の短時間の無思考状態を意識的につくる、というやり方を休憩を挟んで何度でも繰り返せば、むしろマインドが鎮まっている時間の割合が高いとも言えるのである。

しかも、うちの女神様たちのお墨付きである。結果として、優秀な実践方法だったのである。

ところが、先日、なぜだか理由はわからないのであるが、通常の瞑想をしたくなったのである。

そして、やってみた結果、以前よりもはるかにうまくできるようになっていて、初めて瞑想で「涅槃」と呼ばれる状態に到達することができたのである(この語の定義は後述)。

もちろん涅槃にも程度があるし、瞑想については、さすがに私よりできる人など世界中に無数にいるだろう。ただ、嬉しかったものだから、この正攻法の瞑想について書いてみようと思ったのである。なお、涅槃に到達したことは女神様たちに確認済みである。

まず、瞑想の初心者、中級者、上級者という区分けをしてみたい。なお、どこかに閉じこもって何日でも瞑想できる超上級者については知る由もないので省略する。

■瞑想の初心者
雑念に悩まされ続け、我慢大会の様相を呈している。「あと何分で終わるかなあ」。

■瞑想の中級者
瞑想の気持ち良さがわかる。気持ち良いから、またやりたい。ただし、気持ち良い時間帯と、雑念に悩まされる時間帯がある。その割合によって、初心者寄りか、上級者寄りかが異なる。

■瞑想の上級者
ほとんど一直線に深い瞑想状態に向かう。雑念自体は浮かんでくるが、雑念に悩まされる時間帯はほとんどない。そして、涅槃と呼ばれる状態に至ることができる。あまりに気持ちが良いので、瞑想をやめたくなくなる。目を開いて瞑想を終わりにするのがもったいなく感じる。

私自身、覚醒以前にこの正攻法の瞑想をやっていた時期もあるのだが、初心者の終わりからせいぜい中級者の入口程度のレベルであった。瞑想の気持ち良さというのは感じていたけれども、初心者がよく思ってしまう「あと何分で終わるかなあ」みたいのはほとんど毎回思っていた。

しかし、覚醒・アセンションした後、本気でやってみたら、突然上級者になってしまったのである。

まあ、こういうものは、たいてい意識レベルが高いほど有利である。普段から瞑想状態にある程度近いとも言えるのだから。

 

意識レベルを上げるために瞑想をするのだが、意識レベルが高いと結果的に瞑想がうまくできる。ニワトリが先か卵が先か、ということでもあるのだが、とにかく始めるしかない。瞑想をする⇒意識レベルが上がる⇒意識レベルが高いと瞑想がうまくできる⇒ますます意識レベルが上がる、という螺旋状の好循環を自分で作り上げるよりないだろう。


ここで、瞑想時の状態の変化のフローを見てみよう。

○通常状態から瞑想開始

(導入)

○マインドの活動停止による気持ち良さ(サマーディ)

(継続)

○全体意識の気持ち良さ(涅槃)

瞑想というのは、まずはとにかく、マインドの活動が停止するところへ持っていくわけである。頭の中のくだらないお喋りを停止させる。外部からやってきた思考・雑念に巻き込まれることを停止する。内面の静寂な状態を作り上げる。

 

瞑想におけるこの状態をここでは「サマーディ」と呼ぶことにする。世間一般におけるサマーディ、涅槃(ニルヴァーナ)の定義は曖昧なことが多く、人によって異なる使われ方をしているので、例によって私独自に再定義しておく。

サマーディの状態に持っていくために、ここで導入と書いた何らかの方法を用いることが多い。最もメジャーなのは、自分の呼吸に意識を集中する方法だろうか。あとは、音に集中する方法(例えば、メトロノームのような一定の間隔で音が鳴るような音源を使用する方法など)、頭の中で光をイメージする方法、マントラを唱える方法などがあると思う。

だいたいは、何か特定のこと・ものにマインドを1点集中する。マインドを1点集中することにより、マインドがほかの活動をできないようにしているのである。

この導入部には色々な方法論があると思うのだが、導入部を延々と続ける瞑想法はあまり良くないと思う。なぜならば、それでは涅槃に至らないから。

導入部の目的は、あくまでもマインドの活動を停止させた状態への移行にあるのであって、それを継続することではない。これが目的になってしまうと本末転倒なのである。

従って、自分の内面がある程度の静寂な状態に移行できたら、導入部でやっていたことをやめる。その後は、マインドの活動が停止した静寂な状態の気持ち良さそのものに意識をフォーカスするのである。

意識をフォーカスすると言ってしまったのだが、この時はもう1点集中ではない。全体性の気持ち良さだから、特定のフォーカス・ポイントは存在しない。静寂であり愛であり全体性であるもの、その全体に意識を向け、気持ち良さを感じ続ける。「気持ち良さに浸る」という感じである。

この気持ち良さを感じ続けていると、そのうち涅槃(ニルヴァーナ)に至る。ここでは、「気持ち良すぎて瞑想をやめたくない状態」としておく。サマーディの一形態と考えることもできるかもしれないし、通常のサマーディを継続した先にある天国状態と考えることもできるかもしれない。

 

「涅槃」という語は文脈によって悟り、あるいは悟りの段階の1つという意味で使用されたり、解脱者の死後の世界のようなものを指す場合もあるが、ここでは瞑想中の状態を指している。

 

ここでの涅槃は一般に考えられているのとは異なり、あまり、大袈裟なものではない。もの凄い特殊な変性意識状態とか霊的体験とかではない。瞑想はそういうことを目指しているわけではないのだが、勘違いされがちなポイントである。

ただし、涅槃に至ることができるのは覚者に限られる。やはり、涅槃というのは全体意識の現れと、それによる気持ち良さと言えるからである。

だから、覚醒を目指している段階においては、「ある程度のマインドの活動停止状態」「ある程度深いサマーディ」というのが最終地点になり、あとはそれをどれだけ継続できるかになってくる。

最後に、私自身がやっている瞑想の手順について書いてみたい。あくまでも現時点のものであり、今後さらに改善していくかもしれないのであるが、とりあえず私自身も書き留めておきたいのである。

1)OAチェアの上にあぐらで座る(笑)。床に座布団を敷いて座るよりもなぜか落ち着く。片方の足をもう片方の足の上に乗せる半跏趺坐(はんかふざ)や、ましてや結跏趺坐(けっかふざ)などには絶対にこだわらない。とにかく、楽な座り方。我慢大会になってはいけない。

 

2)姿勢を正して、百会から上下に延びる体の中心線(過去記事「12のチャクラと光の柱」で言及しているエネルギー管)が垂直になるようにする。


3)目を閉じて眼球を上に向ける。いわゆる白目状態なのだが、座禅とは異なり半眼にはしていない。まあ、これは好みで半眼でも良い気がする。目を閉じた方が気持ちは良いだろうか。

 

※ と書いた後に女神様たちに確認してみると「半眼」が良いそうである。それは「雑念が浮かびにくい」からというのが理由であり、かつ、それが唯一の理由である。だから、雑念に悩まされない自信がある人は目を閉じても良い。なお、半眼は「眠くなるのを防止する」という理由ではないそうである(そういう効果はないし、どちらにせよ、眠くなるような状況で瞑想をしようというのがおかしい)。


4)私の場合は導入はほとんど要らない。通常状態でもわりと瞑想状態に近いから。通常のサマーディなら瞬間的に入れる。ただし、必要と思えば自然呼吸に意識を合わせて、1回呼吸するごとに内面に深く入っていくイメージをする。せいぜい4回か5回くらい。これは一気に深いサマーディに持っていきたいから。

5)最初から意識を向けるのは、内面の静寂や全体性の気持ち良さ。1点集中ではなく、全体性が気持ちよいのであり、その気持ち良さに身を委ねる感じ。

6)この状態を継続できれば、そのうち涅槃に至る。

 

7)雑念への対処法は「自分の思考を観察していて、雑念を知覚した瞬間に切り離す」である。雑念が大きく育つまで放置せずに、知覚した瞬間に雑念からフォーカスをはずす。具体的には、導入部の途中であれば、1点集中している対象に意識のフォーカスを戻す。それ以降であれば、内面の静寂の気持ち良さや全体性の気持ち良さに意識のフォーカスを戻す。

 

世間でよく言われている「雑念をそのまま眺めるようにする」といった対処法は私はやっていない。女神様たちに訊いても私の方法の方が良いと言っている。

 

自分の思考を観察できないレベルの場合には世間的な雑念対処法しかないのかもしれないが、その段階で通常の瞑想法をやってもほとんど意味がない。ほとんどの時間を雑念との戦いで過ごすことになるから、結果としてマインドが鎮まらない。マインドが鎮まった時間がほとんどないのであれば、効果はないと言ってよい。だから、その段階を乗り越えるには、冒頭に書いた私のオリジナル瞑想法をお奨めする。


涅槃にも程度はあるから、今回私が到達したのは涅槃の入口からせいぜい真ん中手前くらいであり、女神様たちにも「まだまだ先はある」と言い渡されている。

 

しかし、これまでは涅槃など夢のまた夢くらいの瞑想レベルであったことを考えれば、大成功と言えるのではないだろうか。

 

とりあえず、現時点での瞑想についての考えや方法論などは以上であるが、何か1つでも参考になれば幸いである。