子供というのは質問が大好きである。その中でも特に「なぜ」という質問。

一度質問に答えても、その回答に対してさらに「なぜ」かと理由を訊かれる。もちろん、再度回答しても、またまた「なぜ」と畳み掛けてくる。これが人類の歴史上、たくさんの大人を困らせてきた。

こんな子供の象徴として、かつて「どちて坊や」というキャラを何かで見た記憶があるのだが、今検索して調べてみると、テレビアニメ「一休さん」に出てくるキャラだったようである。

今回の話では、この「どちて坊や」の撃退法を特別に伝授することにする(笑)。

あるいは、もっと真面目な話、ビジネス等の場において、「なぜ」を繰り返し考えてみるという思考法もある。なぜ○○なのか、突き詰めて考える。そして、出てきた答えにさらに「なぜ」という質問を投げ掛ける。これを数回繰り返すと、物事の本質が見えてくるということらしい。

この「なぜ」という質問を延々繰り返していくと、最後にどのようになるのか想像がつくだろうか。あるいは、最後というのがそもそもあるのだろうか。

誰でも一度くらい、この問題について考えたことがあるかもしれないが、普通の人の場合、数回で、おそらくは5回も繰り返す前に「わからない」ということになるだろう。だから、最後までこれをやり続けたことがない。

しかし、今回、私はこの問題に終止符を打ちたいと思う。私には結論が出ているのである。

この結論を出すには、悟り・スピリチュアルに関するさまざまな知識・知恵が必要である。そうでないと、「なぜ」の質問に対して答えを出すことができないから。

では、アセンション達成者である私がこれまでの経験とそこから得た知恵を総動員して、この「なぜ」の繰り返しをやってみよう。最後には何が待っているのか。そこから見えてくることは何か。これが今回のテーマである。そして、これは非常に有用なのである。

いきなりであるが、結論から書こう。この記事のタイトルに既に書いてあるからである。この「なぜ」という質問を繰り返すと、必ず最後には収束する。そして、究極の結論に至る。それは「理由はない」というものである。

自分はなぜこのように行動したのだろうか、どうしてこのように感じてしまうのか、などについて色々とやってみると、わかってくることがある。

最後には必ず収束すること、それは意外と早くやってきて、わずか10回程度の質問で収束してしまうこと、最後に収束する直前では数通りのわずかなパターンしかないことなどである。

最後には必ず収束して「理由はない」となるのだが、これを究極視点における結論とする。究極視点から見れば、宇宙のどんな事象にも理由はない。あなたの行動にも、あなたの思考にも、あなたが感じる感情にも理由はない。

そして、究極視点の1つ手前での結論というものあって、これは「宇宙の創造主がそのように意図したから」という理由になる。宇宙のどんな事象も、あなたの行動、思考、感情も全て「宇宙の創造主がそのように意図したから」という理由で発生していると私は言っている。

ここまでをまとめよう。

[究極視点]
理由はない。

[究極視点の1つ前]
宇宙の創造主がそのように意図したから。

究極視点の1つ手前の「宇宙の創造主がそのように意図したから」に対して、さらに「なぜ」という質問を畳み掛けると、最後に究極視点の「理由はない」という答えになるという図式である。

では、実際にやってみよう。行動、思考、感情という代表例をさきほど挙げたので、順にやってみよう。まずは行動。

Q: 「なぜ」私はあの時あんな行動をとってしまったのだろうか。
A: 配慮が足りなかったから。

Q: 「なぜ」配慮できなかったのか。
A: 配慮できるほどの意識レベルになかったから(意識レベルが低かったから)。

Q: 「なぜ」意識レベルが低かったのか。
A: 魂年齢が若いから、魂があまり成熟していなかった。

Q: 「なぜ」魂年齢が若いのか。
A: 約7億年前に宇宙の創造主が私の魂を創造したから。

Q: 「なぜ」宇宙の創造主は約7億年前にあなたの魂を創造したのか
A: 宇宙の創造主がそのように意図したから。

Q: 「なぜ」宇宙の創造主はそのように意図したのか。
A: 理由はない。

私が言いたいことを、ご理解いただけたであろうか。最後にはこんな感じで必ず収束してしまい、結論として「理由はない」に至ることになる。

次は感情。否定的な感情を感じてしまう理由を突き詰めて考えてみよう。

Q: 「なぜ」私は他人が○○するのを見るとネガティブな感情(怒り、イライラ、嫉妬など)を感じてしまうのだろう。
A: 自分の外側からの刺激(他人の言動など)に対して、自分の内面に持っている観念を媒介者として、自動的に感情を生み出すプログラムが人間には作用しているから。

Q: 「なぜ」その観念を持っているのだろうか。
A: 3次元の地球に生まれるときに、地球人のテンプレートとしての観念一式を埋め込まれていたのと、人生の途中で後天的に観念を学習していったから。

当然のことではあるが、このQ&Aというのは一直線の流れがあるわけではなく、質問の選び方によって流れが分岐したりもする。結局最後に行き着く先は同じではあるが。

Q: 「なぜ」そのような仕組みになっているのだろうか。
A: 宇宙の創造主がそのように宇宙を創ったから(以下、前述の例と同様)。

あるいは別の質問も考えられる。

Q: 「なぜ」その観念を捨てないのだろうか(その観念がなければ、ネガティブな感情を生み出さないのでは)。
A: 観念を捨てられるとわからなかったから。あるいは捨て方がわからないから。

Q: 「なぜ」観念を捨てられることや捨て方がわからないのか。
A: それがわかるほどの意識レベルにないから(やはり以下、前述の例と同様)。

最後に思考についての例をやってみよう。

Q: 「なぜ」そのような考えに至ったのだろうか。
A: 最初にある考えが浮かんだから。

Q: 「なぜ」その考えが浮かんだのだろうか。
A: インスピレーションがやって来たからとしか言いようがないのだが・・・

Q: 「なぜ」そのインスピレーションがやってきたのだろうか。
A: 守護霊などの高次の存在か、ハイヤーセルフか、神様か、ともかく全体意識と呼ばれるものがインスピレーションを送ったから。

Q: 「なぜ」全体意識はあなたにそのインスピレーションを送ったのだろうか。
A: 宇宙の創造主(全体意識)がそのように意図したから(以下同様)。

宇宙のどんな事象についてやってみても、たいして面白くはない。結局、似たような話になり、最後には完全に同じところに収束する。

究極的に、どんなことにも理由はない。そして、理由がないのだから、意味もない。これが結論である。

結論だけだと面白くもなんともないのであるが、これを理解することと、これを理解するうえでわかってくることというのは有用である。

まず、あなたの行動、思考、感情には究極的に理由がない。同様に他人の行動、思考、感情にも理由がない。宇宙の事象にも理由がない。

ということは、あなたは宇宙で発生する全ての事象に対して、究極的には受容するしかないことがわかるのである。ほかの選択肢は存在していない。

もちろん、理解が浅いほど、意識レベルが低いほど、表面的には受容できないような感情が発生したりもするが、その事象にも理由がないので、まさに「受容できないことを受容する」しかないのである。

まあ、今回の話を理解すればするほど、受容できる方向に近づくということである。

そして、今回の話を深く理解すればするほど、あなたの持っている不要な観念の力を弱めることができる。将来的に不要な観念を捨て去るのに役立つのである。

アセンションのプロセスは浄化のプロセスであり、その過程では不要な観念を捨て去っていくのであるが、究極的に宇宙の事象には全て理由がないと理解すること自体、これまで持っていた観念の存在意義を揺るがせるものである。

なぜならば、観念を持っていることにも理由がないし、それぞれの観念にも特に正当性はない。正しい観念も間違っている観念もないのであり、一応表面上、殺人が悪いことになっているというのは、宇宙の創造主がそのような宇宙を創造したからにすぎないということもわかるのである。

 

まあ、そのように創造主が意図した宇宙に我々は存在している以上、殺人は悪いことであるという観念を完全に捨てたりすることはない(我々の進化レベルにおいては)のであるが、究極のところ根拠がないという見方もできるのであり、それを知ることはその観念の影響力を弱めることになるのである。もちろん、全ての観念について言えるし、不要な観念については捨て去ってしまうことも可能なのである。

さらに、観念というのは、この「なぜなぜQ&A」の大動脈の途上にあるのであるから、極めて重要な概念ということも理解できるだろう。「なぜ」を繰り返した時に、ある程度決まった道筋に収束するわけで、その1つが観念の問題である。
 

自分で色々やってみると、観念以外にも究極視点の数歩手前で出てくる概念が見つかるかもしれない。そして、それは非常に重要であることがわかるのである。

 

過去記事「3次元視点と創造主視点」などにも書いてきたが、我々としては究極視点のみから考えるだけでなく、複眼的に、複数の視点から同時に考えることが重要である。

 

究極視点というのは、個別の存在にとっては100%完全には絶対に到達できない視点であり、その視点からの見解というのは、ある意味では理想論であり、努力目標的なものでもあり、場合によっては「綺麗事」にすぎない。

 

究極視点のみから考えて、ほかの全てを切り捨てることは、我々が生きている人生ではあまり役に立たず(覚醒に至る道の途中では非常に役立つ)、ある意味では空しい。

 

我々は全体意識そのものでもあるが、全体意識が個人意識としての体験をする場が人生なのである。個人意識を一切否定するのであれば、全体意識はそもそも個人意識に分離しなければよかったのであり、個人意識としての体験の場である人生など必要なくなってしまうのである。

 

だからこその、複数視点による複眼的、立体的な見方なのである。

 

そして、究極視点からの結論を踏まえつつも、その1歩手前、2歩手前、3歩手前くらいの結論というのは非常に有用なのである。

 

今回の話は読んで非常に有益だったはずであるが、読んで終わりではなく、実際に自分で色々とやってみていただきたい。もちろん、その方が理解が深まるからであり、自分でやってみることで初めて到達できる境地というものがあるからである。

 

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