宇宙の創造主の究極視点から見れば、善も悪も存在しない。全ての悪は御用の悪であり必要悪である。だから、絶対的な善とか絶対的な悪というのは存在しないのである。

 

しかし、個別の存在の視点からすれば、善も悪も存在している。3次元視点から見れば、明らかに殺人は悪である。

 

この「悪とは何か」という問いは非常に難問であり、多くの人を悩ませてきたわけであるが、ここに私なりの回答を示そうというのが今回の記事の趣旨である。

 

まず、殺人、テロ、侵略戦争、大量殺戮のようなことは、ほとんど全ての人にとって悪であることは同意できるであろう。

 

しかしながら、この現代においてすら、宗教上の大義のもとにテロや戦争を行うような人たちも存在しているわけであり、善だと思ってやっている人もいるのである。

 

つまり、全ての人が同意できる基準の悪の定義というのはないのである。まず、悪というのは相対的なものであることがわかる。視点により判断基準が変化する。もっと言えば、意識レベルにより判断基準が変化する。

 

さて、殺人ほどではないけれども・・・という事象についてはどうだろうか。

 

例えば、ドロボー。人のものを盗むという行為。これもまあ、まともな現代人であれば、ほとんど全ての人にとって悪であることは同意できるであろう。

 

では次。ドロボーほどではないけれども・・・という事象。

 

色々あるし、何でもよいのだけど、ここではパワハラを考えてみる。これも多くの人が悪であると言うだろう。

 

では、パワハラというほどではないけれども・・・という事象。

 

電車内の迷惑行為はどうだろうか。大音量の音漏れとか、混雑した車内での足組みとかのレベルのもの。

 

この辺りからグレーゾーンに感じ始めるかもしれない。確かに迷惑だが、悪というほどなのかと。いや、自分は絶対にやらないし、悪と言えば悪だという意見の人もいるだろう。

 

さて、このゲームのコツがつかめてきただろうか。「悪の度合い」のようなものは人によって感じ方が異なるので、「暴力」は「ドロボー」と比較してどうなのかとかいう問題はあるのだが、自分にとって悪と思えることの「悪の度合い」を変化させてみるとコツがつかめるのである。

 

次は、捕鯨とかイルカ漁を考えてみよう。これは悪なのだろうか。

 

これを絶対的な悪だとみなして暴れまわっている団体等があるようであるが、悪なのだろうか。

 

牛、豚、鳥などの肉を食べることはどうだろうか。これらの肉を食べるには屠殺をしなければならない。肉食は悪なのだろうか。

 

菜食主義ならよいだろうか。それとも、植物を食べることもやっぱり悪なのだろうか。

 

結論が見えただろうか。私が言いたいことが見えただろうか。

 

このように少しずつ、「悪の度合い」を変化させていくと、絶対的な境界線は存在しないということがわかる。「悪の度合い」が違うだけである。

 

人によって感じ方は異なるであろうが、例えば、殺人の悪の度合いは99%、ドロボーは80%、パワハラは70%、電車内の迷惑行為は40%、捕鯨・イルカ漁は20%、肉食は15%、菜食は1%のように感じるかもしれない。

 

人によっては、あるいはそれぞれの程度によっては順番が入れ替わるかもしれないが、それでもよい。

 

しかし、どこまで行っても「程度の問題」でしかないことには同意できると思う。線引きするにしたって、自分独自の決め事にすぎないことも理解できるだろう。

 

さて、ここで「悪とは何か」という問いに対する私なりの答えを書こう。

 

「悪とは、魂が進化するに従ってやらなくなっていくことである」

 

現代人の大多数にとって、殺人やドロボーは悪であり、そういったことをする魂の進化段階はもう卒業しているのである。

 

しかし、パワハラや電車内の迷惑行為などは、まだそれをやるようなレベルの進化段階の人も大勢いる。もちろん、覚者等にとっては、全く考えもつかないような行動ではあるのだが、それは意識の進化レベルの段階によって異なる。

 

だから、悪とは何かの答えにあるように、悪は相対的なものであり、その人の進化レベルの段階によって悪と思うことの内容も異なるし、範囲も異なるのである。

 

魂が進化するにつれて、色々なことを卒業していくのだから、どんどん悪の範囲は広くなっていく。ちょっとしたことでも悪は悪だとするならば。

 

肉食についても、人類が進化すれば、いつかはやめる時が来る。しかし、当分はまだ続くであろう。

 

覚者やアセンション達成者であっても、肉食の人はべつに珍しくない。第1グループのアセンション達成者の中で菜食主義の人は約40%だそうである。

 

私もまだ肉食は続けている。この人生の中で、いつか肉食を卒業する時が来るかもしれないとは思っているが、それはまだわからない。

 

魂が進化すれば、いつかはやめる時が来るのであるが、現在既にやめている人の意識レベルが必ずしも高いとは限らないことに注意していただきたい。

 

こういう言い方はためらわれるけど、ベジタリアンの99.9%以上、事実上100%と断言しても良いけれども、ほぼ全て(あるいは完全に全て)のベジタリアンの方よりも今の私の意識レベルの方が高い。

 

ポジティブな言い方をすれば、ベジタリアンの方は食に関することで言えば部分的に私よりも進んでいるとも言える。

 

でも、ほかの面では私の方が進んでいる部分もあるわけである。

 

捕鯨やイルカ漁に強硬に反対している団体等の言い分にも、もちろん理はある。しかし、別の面ではそれらに関わっている人や国(日本などの)の方が進んでいる部分も多々あるわけである。

 

ある面において、自分は他人よりも魂的に進歩していると思い、それだけを強硬に主張している人または団体というのは善100%でもなんでもない。自分ができていないこともたくさんあるのである。


そして、そもそも「自分のことは棚に上げて他人にとやかく言う、自分の主義主張を押し付ける」ということ自体が悪である。

 

「悪とは、魂が進化するに従ってやらなくなっていくこと」なのであるが、とりわけ、自分は既に卒業したことなのに、それを他人がやっているのを見た時に悪だと認識する。

 

だから、こういう言い方をしてみたいと思う。

 

「卒業のタイミングは人それぞれである」

 

それを他人がとやかく言うから争いになるのである。魂が進化すれば、いずれやらなくなることが悪であるから、いつかは卒業するのである。

 

ただ、パワハラなり迷惑行為などを自分が直接受けた場合は、当然ながら、抗議するなり、その場を離れるなりして良い。場合によっては強硬手段に出てやめさせても良いのである。

 

相手はそれらの行為をまだ卒業するレベルの進化段階ではないのだけど、それはそれで良いのだけど、「別のパラレルワールドで勝手にやってくれ」という話である。自分の小宇宙の中で、そんなことが起こり続けるのを容認する必要などゼロである。

 

「悪とは何か」についての方が例を挙げやすく、話がわかりやすいと思い、悪について語ってきた。

 

それでは、「善とは何か」。これは悪との対称性を考えれば、それが答えである。

 

「善とは、魂が進化するにつれてやるようになっていくこと」

 

そして、こちらについても、とりわけ、大多数の他人ができていないのに自分ができていることを善だと認識するのである。

 

善については「偽善」というトラップがあるので、注意したい。本当の自分が心の底からやりたいと思ってやっていること、つまりハートの声に従ってやっていることではなく、「こういう行動は社会的に善とされる、称賛されるべき行動である」という社会的観念にのみ従ってとっている行動を「偽善」と呼び、それは本当の善ではないのである。

 

これについては過去記事「ハートの声を聴く」に書かれているので、参照していただきたい。

 

悪とは何か、善とは何かについて、私もこの人生の中で色々と考えてきたわけであるが、ある程度自分の考えがまとまるに至り、それを書かせていただいた。

 

この問題について、絶対的な正解の回答が存在するわけではない。しかしながら、今回私が出した回答について、「上の存在たち」は賛同してくれているとのことである。

 

今回は悪と善について採り上げたのであるが、鋭い読者の方はお気づきかもしれない。

 

実は、悪と善に限らず、相反する概念というのは全て相対的なものであり、何一つ絶対的なものはない。

 

この世界には完全なる白も、完全なる黒も存在しておらず、「全ては程度の異なるグレー」なのである。絶対的な境界線など存在しないグラデーションなのである。

 

それが私たちが存在している相対性の世界、二元性の世界の本質である。

 

あなたが自分で境界線を引くことは構わないが、それは自分独自の取り決めであることを自覚することが重要なのである。

 

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