宇宙の全ては源泉と呼ばれるところから生じた。形あるものも、形の無い概念、観念、感情なども。全ては1つであった。

しかし、全体意識は無数の見掛け上の個人意識を生み出し、幻の時空間を創り、幻の次元・宇宙を創り出した。それぞれの個人意識にキャラクターやストーリーを与え、さまざまな体験を可能にした。

自分とそれ以外という区分ができた。主体と客体。これが二元の世界の始まりである。

そして、自分とそれ以外のもの、あるいは、自分以外のもの同士での比較が生まれた。比較によって、差異が生まれた。

こうして、大きいと小さい、高いと低い、白と黒、善と悪などの二極性が生じた。

大きいと小さいは差異から生じた双極性であり相対性である。高いと低いも、白と黒も、善と悪も、差異から生じた双極性であり相対性である。だから、1つの軸上にある両極の概念であり、1つの概念を棒状に伸ばして両極にそれぞれの名前を付けたものと言うことができる。両極の間にはグラデーション状に中間状態がある。

これが私たちの見ている二元の世界、そして二元の世界における二極性の正体である。

この話はたぶん、色々な書籍に書かれているので、なじみのある方も多いかもしれない。

今回のテーマの「統合という概念」というのは、以上の話の逆方向の話ということになる。こちらも書かれている書籍はあるだろうが、やや珍しい話でもあるような気がする。

過去記事「非二元vsスピリチュアルという宗教戦争」からの引用。

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次に「統合」。非二元とスピの場合は、どちらかが成立するともう一方が成立しないというようなものではないが、仮にそう思えたとする。でも宇宙の真実って不思議で、一見180度真逆の相矛盾することがらが同時に成立することもある。3次元では同時に成り立たないように思えるんだけど、6次元だと同時に成り立つとかね。

「非二元」という箱と、「スピリチュアル」という箱があるとする。3次元だと、どうしてもどちらか一方しか選べないようにしか思えない。神様の聖なる催眠によってそうとしか思えない。なぜって、それが3次元だからさ。でも、6次元だと2つの箱の両方を包んでいる外側の箱がもう1つ見えるんだよ。ああ、どちらか一方しか選べないと思ったのは錯覚だったんだと判るんだよ。なぜって、それが6次元だからだよ。

ここで6次元と書いたのは、5次元にアセンションした私から見ても想像の域を出ないということの比喩ね。でも、理屈はいいの。高次元では同時に成り立つんだよ。

「非二元」と「スピリチュアル」の場合には私には統合方法がわかるし、調和している。でも、仮に統合方法がわからない場合でも、我々には想像もつかない統合方法が常に存在しているということだけ知っておけば良い。

ここでは、「非二元」と「スピリチュアル」の両方を選ばなければならないということではないが、両方を選ぶことはできるし、また一方を選んだからといってもう一方が間違いだということではないということ。
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ここで、「仮に統合方法がわからない場合でも、我々には想像もつかない統合方法が常に存在している」と書いている。

「非二元」と「スピリチュアル」であれ、もっと真逆に見える2つの概念であれ、「愛」と「憎しみ」であれ、統合は可能であるということを言っている。宇宙の不思議として、180度真逆に見える2つの事柄が同時に成り立つと言っている。

これはなぜだか判るだろうか。実は、既に答えは書いてある。冒頭に書いたことが答えである。

「元々、全ては1つだったから。全ての概念はワンネスを分離することから生まれたから。」

分離の逆方向を「統合」と呼び、統合を進めると最後にワンネスに到達するので、どんな2つの真逆の概念でも統合が可能なのである。地球人には具体的な統合方法がイメージできないような2つの概念であっても、神様の究極視点から見れば、統合は可能なのである。

従って、「非二元」と「二元」ですら統合できる。「色」と「空」も統合できる。「現実」と「非現実」も統合できる。個人が存在するのと、個人が存在しないのも統合できる。自由意志が存在するのと、自由意志が存在しないのも統合できる。

木の幹から枝が分かれていくのを想像してみよう。枝分かれした枝がさらに枝分かれし、最終的に細い枝にたくさんの葉っぱが付いている。この葉っぱを概念とする。全く違う枝についている葉っぱ同士でも、大元へと辿っていくと、必ず同じ幹に到達するのである。

全ての概念は源泉でありワンネスであるものから生じている。分離と二極性によって、無数の概念が生じた。しかし、元を正せば全ては源泉でありワンネスである。

以上が、宇宙の不思議の1つである、真逆に見える概念の両方が同時に成り立つことの説明である。

話が抽象的になったので、具体例で練習しておこう。

「白人」「黒人」「黄色人種」を統合してみよう。これらの上位概念は「人間」あるいは「人種」といった概念である。抽象度を1つ上げた概念で統合しているわけである。枝と枝の分岐点まで戻って統合したということになる。

このように、抽象度が高い方向に行くことが統合。抽象度が低い(より具体的、細分化された)方向に行くことが分離である。抽象度を上げると統合できるという例である。最も抽象度が高いのが「ワンネス」。

次に「愛」と「憎しみ」を統合してみよう。ただし、ここでの「愛」はワンネスや全体性ではなく、感情としての「愛」とする。

 

憎しみという感情は実は愛から派生している。憎しみは、自分と他人との差異から生まれている感情であるが、根底には「相手が自分と同じであってほしい」という一種の愛があるのである。相手が自分と同じであれば、幸せなのに・・・。同じであれば、仲良くできるのに・・・。ところが、現実には同じではない。その愛の感情が変な方向に捻じれてしまったのが、「憎しみ」なのである。

一般的に「愛」の反意語として同意しやすい「憎しみ」を代表例として挙げたのであるが、実は全ての感情は愛から派生している。他人に対する「怒り」なども憎しみと同じようなものである。これもまた別の方向に捻じれてしまっただけで、相手が自分と同じではないことから発生している感情と言える。

 

また、「憎しみ」も「怒り」も自分に対する愛から発生している感情でもある。自分を愛しているから、その愛している自分を傷つけようとする存在に対して湧いてくる感情ということも言える。

 

元々の「愛」は宇宙全てに対する愛なのであるが、主体と客体に分かれた時に、主体側、ここでは自分だけというよりは、自分を含むチーム側のみに対する愛という感情が生まれた。自分チームと相手チーム。自分チームという部分集合に対する愛が感情としての「愛」になり、相手チームに対する感情が「憎しみ」であり「怒り」となったのである。

 

結局、「憎しみ」も「怒り」も感情としての愛からの派生である。一般的に「愛」という言葉で示される、捻じれていない純粋な「愛」を「愛A」とする。「憎しみ」は「愛B」、「怒り」は「愛C」である。全て愛からの派生だから。

 

この場合、全ての感情を統合する概念は「感情としての愛(純粋だろうが、捻じれていようが)」あるいは「感情」といった概念である。


最後の例として、「夢・幻」と「現実」を統合してみよう。非二元の世界では、この世界は「非現実」かつ「現実」などとも言う。しかし、何をもって現実とするのだろうか。

私たちが夜寝ている時に見る夢は、起きている時の私たちからすれば、現実度数10%かもしれない。起きている時に存在している世界が現実度数100%。しかし、夢を見ている時には、その夢の世界が現実度数100%なのである。だったら、夢を単なる夢として片づけることはできないのではないだろうか。

この地球上の3次元世界も創造主の究極視点や、そこまでいかなくても4次元以上の視点から見れば、夢・幻のようなものである。しかしながら、3次元の世界の中にいる非覚者にとっては現実度数100%なのである。まあ、覚者にとっては現実度数50%とも言えるのだけれども。現実50%、非現実50%のような。

ここで言いたいことは、視点によって現実度数が変わるだけであって、「夢・幻」も「現実」も同じ世界を指しているということなのである。ある人(視点)によっては「夢・幻」寄りに感じられるし、別の人(視点)からは「現実」寄りに感じられる。覚者のように両面から見ることができる人もいる。

でも、全て同じ世界を指している。同じ世界に対して「夢・幻」という呼び方をするのか、「現実」という呼び方をするのかの違いだけである。だから、私が過去に何回か書いているように、私は「この世界は夢・幻のようなものかもしれないが、夢・幻程度には現実でもある」という言い方が好きなのである。

ということで、「夢・幻」も「現実」も視点や見方によって言葉が変わっただけということなのであり、根本は同じものであるということで統合ができるのである。

「夢・幻」というのは「夢・幻のような世界」、「現実」というのは「現実世界」と言い換えられるとすれば、これらを統合する概念は「世界」などのようなものとなる。

 

まあ、言葉での表現には限界があるので、言葉としては説明ができないような統合の例もあるだろう。しかし、それは言葉を用いる地球人の表現の限界であって、本質ではない。概念同士なら、どんな組み合わせでも究極的には統合できるのである。


最後にまとめ的なお話。

統合の方向性に作用する力を「愛」と呼ぶ。ここでは感情としての愛ではなく、スピリチュアルで言う全体性としての「愛」。

 

個人にとっての愛の度合いというのは意識レベルの高さに置き換えられるが(意識レベルが高いほど愛の度合いが高い)、これはまた「統合力」と言い換えることも可能であろう。

複数の概念を統合する見方、真逆の概念を統合する見方。宇宙の全てを統合する見方。これらの見方ができる人ほど愛の度合いが高く、意識レベルが高いと言えるのである。