このブログでは非二元や悟りについても書いているし、スピリチュアルについても書いている。実はこのようなブログはとても珍しいということに気が付いている方はいるだろうか。
ついでに言えば、このブログでは私の趣味が神社巡りであるため神社・神道の話も出てくるが、深い教義の話などはあまりないにしても、文中には仏教やブッダのことも出てくるし、イエス・キリストも出てくるし、私はヒンドゥー教の流れをくむインドの聖者の本にも学んでいるので、そういう話を書いたこともある。
宗教や派閥や集団に属していないし、そういう執着もないのである。
こういうブログはこのFさんのブログくらいなもんである(えっへん)。いや、世界は広いからほかにもいるかもしれないけど。まあ、珍しいとは思う。
一般的に言えば、非二元の信奉者とスピリチュアルの信奉者は仲が悪い(笑)。もう宗教戦争と変わらないのではないかと思う時さえある。キリスト教対イスラム教のような宗教戦争も酷いものであるが(波動レベルが低い)、見方によってはこれとたいして変わらないじゃん、と思うわけである。
非二元の信奉者や悟りを開いた覚者と呼ばれる人たちはスピリチュアルを馬鹿にしている場合もある。悟りという最高の境地を得て、非二元の世界を体感し、もうこれでほかには何も不要であると。覚者であっても(覚者だからこそ?)宇宙人や高次元存在を全否定する人も多いようだ。
だが、私からしたら全否定する根拠がわからない。「自分が知らないことを勝手に結論付けて断定したり全否定したりするなよ」(笑)とか思っちゃう(思っちゃうから仕方ないんだが、この辺りは私も愛とやさしさに欠ける(笑))。悟りを得た程度で宇宙の全てが分かったなどと思うのは傲慢もいいところ。
ああ、こんなことを平然と言ってのけるとは、私はなんて勇敢な人なんだろう(笑)。まあ、スターシードだからね。
一方で典型的なスピリチュアルな人の非二元に対するアレルギーもすごい。80年代(?)のバシャールの時代から長年にわたって築き上げてきた自分の世界観を叩き壊しに来た敵対者かなんかの扱い。その世界観を傷つけたくないから、なんとかして防衛しようとする。あんなのはおかしい、とか言い出す。
や・め・な・よ(笑)。そういうの。どっちもどっち。
上から目線でモノを言って申し訳ないけど、非二元の世界観とスピリチュアルの世界観を統合して調和した見方ができるようにならないと。
非二元は一面の真理である。我々すべての存在は源泉、ワンネス、全体意識、神などと呼ばれるところから来ており、一体である。分離は見かけ上のものにすぎず、そういう意味では個人は存在しないとも言える。我々が実際に存在していると思っている世界は現実かつ非現実である。夢や幻のようなものと言えるのかもしれない。我々は純粋意識そのものであって、名前とストーリーを与えられた演劇に出てくる登場人物のキャラクターのようなもの。人生は単なるストーリーにすぎない。
しかしながら・・・。世界は夢や幻のようなものなのかもしれないが、夢や幻程度には現実でもあるのである。夢や幻のような世界の中でストーリー上のキャラクターを演じることこそが、人生を生きるということであるとも言えるのである。
現実かつ非現実と言いながら、非現実の方ばかりに焦点を当てるのもおかしい。色即是空、空即是色と言いながら「空」にのみ焦点を当てるのもおかしい。覚醒したって、「空」の世界だけで生きていくことはできない。我々は「色」の世界で生きていかなければならない。
禅の世界に「十牛図(じゅうぎゅうず)」というのがあるよね。悟りの段階を10枚の図で表現したもの。私も聞きかじり程度の話だけど、最後にどうなるかという部分がここで言いたいことなの。
最初に牛(真我・悟り)をつかまえようと心に決める(第1段階)。修行とかするんだけど、なかなかつかまらない(第2段階)。頑張ってなんとか、やっと牛をつかまえた(第3段階=悟り。ここがまだ第3段階というのも興味深い)。しかし、時に牛が逃げて行ってしまったりする(第4段階)。(中略)。ありのままの世界を生きる最高の悟りの境地に達する(第9段階)。最後に悟りの境地、空の世界、非二元の世界がわかったうえで、世俗(色の世界)に戻っていく(第10段階)。
非二元の世界観というのは覚者としては当然持っているものであり、また、覚醒に至る道において非二元を学ぶことは非常に強力なツールとなる。しかし、覚醒後も色の世界、見かけ上の世界を生きていかねばならず、結局そこに戻っていく。この時になっても依然として有用なのがスピリチュアルの知識や技術なのである。
話をものすごく単純化して、意識レベルの話と関連付けてみる。意識レベルについては過去記事「意識レベル」「意識レベル(2)」を参照のこと。
(3次元世界)
意識レベル ~499 物質世界
意識レベル 500~699 スピリチュアル
意識レベル 700~1000 悟り・非二元
(5次元世界)
意識レベル 1001~ 非二元とスピリチュアルの統合
※ 実際には5次元に次元上昇した段階で数値は一気に跳ね上がるので、例えば1001とか1050とかにはならない。私の測定経験では。
もちろん、単純化したので多少無理はある。例えば3次元世界の意識レベル700以上の人でスピリチュアル的な世界観の人や、非二元とスピリチュアルの両方の世界観を持っている人はいる。
十牛図の方もそうなんだけど、進化は直線的に進むというよりは螺旋的に進む感じがあって、「100%完璧な第8段階⇒100%完璧な第9段階⇒100%完璧な第10段階」のように後戻りしない進み方というよりは、「70%の第8段階⇒70%の第9段階⇒70%の第10段階」のように進んでから世俗に戻って一周してきて「80%の第8段階⇒80%の第9段階⇒80%の第10段階」のように進むようなイメージもある。まあ、第10段階から第1段階に戻ることはないので、あくまでも部分的なイメージね。
だから、「私は今日限りでもうスピリチュアルを卒業して次は非二元に進むんだ」とかではない、ということ。
さて、まとめ的な話なんだけど。非二元の人から見たスピリチュアルの世界だとか、スピの人から見た非二元の世界のように、信じられないこと、信じがたいこと、信じたくないことってあるよね。目に見えない精神世界のことだから、それはたくさんある。
この時に心の奥底にある「魂のフィルター」を通して情報をろ過することはもちろん大事。だけど、多くの人が言っていることには、それなりの根拠がある場合も多いから、あまり表面的な判断はしない方が良い。
こういう場合に使えるツールが2つ。「判断保留」と「統合」。
まず、「判断保留」について。世の中には信じがたい不思議なことなど数限りなくある。しかし、表面的な判断で「こんなの嘘に決まっている」といった態度は好ましくない(全てにこれをやっていると新たに学べない)。あなたも私も宇宙の創造主ではないのだから、全てを知っているわけではない。
このような時には、その場で「正しい」か「間違っている」かを決めない。判断保留にする。この世の全てに正誤のジャッジをする必要などない。もし必要があれば、理解が進んだ後に再度そういう機会が来るかもしれない。初めて非二元の本を読んだ時にメッセージに反発ばかり感じたとしても、数年して再度読んでみたら受け入れられるかもしれない。「わからないけど、そんなこともあるのかな」という魔法の言葉を覚えておくと良い。
次に「統合」。非二元とスピの場合は、どちらかが成立するともう一方が成立しないというようなものではないが、仮にそう思えたとする。でも宇宙の真実って不思議で、一見180度真逆の相矛盾することがらが同時に成立することもある。3次元では同時に成り立たないように思えるんだけど、6次元だと同時に成り立つとかね。
「非二元」という箱と、「スピリチュアル」という箱があるとする。3次元だと、どうしてもどちらか一方しか選べないようにしか思えない。神様の聖なる催眠によってそうとしか思えない。なぜって、それが3次元だからさ。でも、6次元だと2つの箱の両方を包んでいる外側の箱がもう1つ見えるんだよ。ああ、どちらか一方しか選べないと思ったのは錯覚だったんだと判るんだよ。なぜって、それが6次元だからだよ。
ここで6次元と書いたのは、5次元にアセンションした私から見ても想像の域を出ないということの比喩ね。でも、理屈はいいの。高次元では同時に成り立つんだよ。
「非二元」と「スピリチュアル」の場合には私には統合方法がわかるし、調和している。でも、仮に統合方法がわからない場合でも、我々には想像もつかない統合方法が常に存在しているということだけ知っておけば良い。
ここでは、「非二元」と「スピリチュアル」の両方を選ばなければならないということではないが、両方を選ぶことはできるし、また一方を選んだからといってもう一方が間違いだということではないということ。
色々書いたんだけど、非二元vsスピの宗教戦争をしている人たちがいる一方で、こういった宗教や考え方の派閥(?)間の垣根がなくなっていく動きもある。例えば、仏教で長年修行してきた高僧の中にも、驚くほど柔軟な考え方を持たれている方も多い。あるいは、高僧にまで到達したからこその執着のなさかもしれない。
非二元・悟りもスピリチュアルも同時に成立しているし、世界中の(まともな)宗教の到達点はだいたい同じ。非二元だけが正しいとか、自分のところの宗教だけが正しいとか、そんなことはないからね。まあ、わかりやすく言うならば、このブログを見習ってくださいってことです(笑)。
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