この三四日咳き込み、夜中も咳がとまらなく睡眠不足で、かなり辛い状態が続いております。
水曜日と今日金曜日には自宅近くのクリニックに行き点滴を打ってもらいました。
昨晩は、少しゆっくりと睡眠をとる事が出来ました。
今現在はすこし楽ですが、まだまだ咳をしております。
夏風邪は辛いですね。
今まで夏風邪を引いたことが無かったのにやはり体力が無くなりつつあるのでしょうか?
これからもっと健康管理に気を付けなくてはいけません。
Kaz Suzuki
この三四日咳き込み、夜中も咳がとまらなく睡眠不足で、かなり辛い状態が続いております。
水曜日と今日金曜日には自宅近くのクリニックに行き点滴を打ってもらいました。
昨晩は、少しゆっくりと睡眠をとる事が出来ました。
今現在はすこし楽ですが、まだまだ咳をしております。
夏風邪は辛いですね。
今まで夏風邪を引いたことが無かったのにやはり体力が無くなりつつあるのでしょうか?
これからもっと健康管理に気を付けなくてはいけません。
Kaz Suzuki
今日現在まだ東京に来ています。
昨日の朝から調子が悪くなり、咳が出て、少々熱があるようです。
もう若くは無く、しんどいですが、明日(9月13日)の夜関西に戻れますので、あと一日東京で頑張ってみます。
関西に戻り、体調が良くなりましたら、野菜のこと、お米のこと等を書き込んでいきます。
一つお知らせです。私のベジフル仲間の「りょうこシュガー」さんがベジフルF2K ブログ (http://ameblo.jp/f2kmember/ )に登場されました。
皆様、一度当ブログを訪問してあげて下さい。
宜しくお願い致します。
Kaz Suzuki
東京でスローライフを提唱しているある会社の方とお話しする機会が有りました。
東京近辺の高級スーパーでは「新潟産の有機栽培で冷めても美味しく頂けるお米」を今年の秋頃から
1キログラム当り1,200円で販売するそうです。
Farm To Kitchen Foodsでは阿古三無園が無農薬・無化学肥料・無除草剤での完全有機栽培で一生懸命育てた「ミルキークウィーン」をで1キログラム当り1,000円で売りに出しました。
Kaz Suzuki
三日間ご無沙汰しております。
毎晩のみ歩いていて帰宅が遅くなったのと、今日は東京へ来ており、報告が出来ませんでした。 済みません。
9月8日(木)は7時10分の新大阪発の「のぞみ」に乗るために久しぶりに朝5時半ごろ起床しました。
最近は自由人で起床が7時半から8時頃なのでかなり辛かったです。
さて、台風14号の風の影響は幸運にも受けませんでした。
ホッとしております。
稲穂はしっかりと実を付け立っています。
今月の20日過ぎの稲刈りを待っております。
阿古三無園の阿古さんの予定がなかなか決まらなくて何時稲刈りが出来るか分からない状態ですが、日程が決まりましたら、ご報告させて頂きます。
Kaz Suzuki
台風14号が明後日頃に九州地方に上陸の可能性が高くなりつつあります。
亀の尾は稲丈が高く、倒伏しやすくいので、近畿地方に接近し、万が一暴風圏内に入れば心配です。
もう直ぐ稲刈りだというのに、あと二週間余り無事に育ってくれれば良いのですが。
Kaz Suzuki
今日、阿古三無園の阿古さんに「亀の尾」の稲穂の状況を問い合わせ致しました。
やはり、ついに「ネットを張りました。」とのご返事でした。
なんとなんと、すずめ約300羽が「亀の尾の稲穂」を食べに来ていたそうです。
すずめには申し訳ないですね。
少々複雑な気持ちです。
Kaz Suzuki
偶然なる三本の稲が生んだ幻の米、亀の尾
農業への熱い思いと、貪欲なまでの米づくりへ対する姿勢が
いまも幻の米として名高い「亀の尾」を生み出した。
その米はその後、ササニシキ、コシヒカリの誕生へとつながり、
今も日本の米の歴史を語るのに
なくてはならない存在となっている。
農業改良にその一生を捧げた
阿部亀治の想いは、遥かな時を越えて、いまも脈々と受け継がれている。
-平成7年度余目町勢要覧より-
阿部亀治(あべかめじ)
水稲「亀の尾(かめのお)」を創選。乾田馬耕・耕地整理事業などの農事功労者。
現在の余目町小出新田、阿部喜一家出身。
阿部亀治と「亀の尾」
・ 阿部亀治周辺の概況 ・
亀治は当時の「岡所」で小出新田の農家に明治元年に産まれている。稲作は行われていたが、水利が不便であったため、一年中水を掛けていた。よって、稲刈りの時期でも「たんぼ」がぬかるんでいて、ヒザまで沈んだ。こういうたんぼを「深田」と呼んでいた。当時の多くはこういった「たんぼ」であった。
時代背景としては、明治維新以来、庄内地方では民間育種家が活発に水稲の新品種創選に取り組んでおり、その成果は目を見張るものがあった。これは全国的にも例を見ない。それは今日のように農業機械や肥料や栽培法も発達していない当時としては、米作の収量を左右したのは天候と品種の善し悪しであったからだ。そこで人為的に変えることの可能な品種の改良に眼が向けられたとの識者の見方もあるが、これはこの地方に限ったことではない。
庄内に民間育種家が多く出た動機について、庄内の稲作にかける農民の情熱・技術水準・生産条件に対し「異常なまでの」という雰囲気が元々在ったのではないか、ということと、庄内藩時代の農政の影響があったのではなかろうか、と思われる。領内は儒教が盛んで、領民にも論語や孟子を奨励した。自然と気持ちも研究へと向いたであろうし、何よりも庄内の環境が一番影響を与えている。平坦地で一部は水利には恵まれているが、土壌の条件は必ずしも稲に適しているとはいえないし、それ故に常に「かいげん(開眼)」の努力が必要であったのだと思う。また、場所により土質が異なり、農民は品種の選択に細かな気配りを強いられ、それがかえって意欲に繋がっている、と、元山形県立農業試験場長 大沼済は言っている。また、庄内地方はまったく稲作本位の農業であるため、米に関しては実に真剣そのもので、農民の稲作に対する愛着は到底他地方の民情では計り知れないものがある。経済を度外視して新品種の創選へと走らせたもののようである、と、仲鉢幸雄がいっている。これらの意見は、庄内の民間育種家の心を言い得ているのではないだろうか、と思われる。
こうした背景のもとに生まれた、この地域の老農が抜穂(ヌキホ)選種法を伝え、熱心な農家が地道に抜穂を重ね、その極一部だけが世に名を残しのである。本町の場合、特に例をみないほど、その傾向が強い。
亀治がそのような状況下の余目に産まれてから、様々な農業改革が行われているが、それが大きく影響を及ぼしているようだ。
その一つ。明治7年に2代目県令が奨励した「乾田馬耕」により、今までの収量の倍近く生産されるようになった。これも実は、余目の農民が考案したとされている。
次に、北楯大堰の恩恵を受けている地域で抜穂選種法が伝わり、品種改良が進んでいて、余目が度々冷害で苦しんでいるときに「大野早生」という品種が明治3年(正式発見は同年13年)に創選されている等、こころざしある農民にとって「なにかをなしたい」という気概が備わってきていたのだと思う。
余目の育種家
明治に入り「地祖改正」により、土地も米も個人の所有物になり、それまで稲の栽培方法までも「藩」の統制下であったが、以後自分の力量で「技術改革」等が自由に行えるようになった。
このような状況下に民間育種家が産まれ、品種と名前が残っているだけでも「大野早生」の阿部治郎兵衛、「豊国」の桧山幸吉、「萬国」の阿部萬治、「出羽錦他」の大沼作兵衛、「森多早生他」の森屋正助、「堀野錦」の土屋仁助がある。
中でも特に「大野早生」の阿部治郎兵衛は、民間育種家の先駆者として知られ、「森多早生他」の森屋正助が創選した森多早生は、亀の尾と共に「コシヒカリ」の先祖として知られている。
「阿部亀治」というひと
亀治は、先に述べたように明治元年に、小出新田の農業阿部茂七の長男として産まれ、幼少の頃から農業に従事していた。教育としては、当時の「寺子屋」で受けたほかは、独学で研究を重ねた。
当時、青年は品種や技術の向上をめざし、高齢者は経営規模を拡充することを奨励していたようだ。
青年の亀治は、起こる農業関係の技術に関心を高め「いつかはおれも」と思っていたにちがいない。乾田馬耕が奨励されると率先してその普及に努力し、雁爪除草の奨励、耕地整理等、当時の改革された農業技術の殆どに奨励している。
【しかし、岡所の亀治には、「水」がなかったため乾田馬耕は、意味を成さなかった】
そんな亀治は、常に問題意識を持ち続け日々生活していたに違いない。
見えども見えず
食えども食えず
聞けども聞けず
その問題意識を「どこ」に持つか、ということを考えていたのだと思う。
明治39年、同志とともに「大和耕地整理組合」を設立し、最上川右岸の開発に着手し、大正2年に、大和村(現大和地区)650・の耕地を整理し乾田化に成功している。
小さな発見から後世まで影響を与えた「亀の尾」の創選
そんな亀治が運命の出会いをすることになる。明治26年9月29日、立谷沢村(現.立川町)中村集落にある熊谷神社に小出新田の人達と御参りに行き、その近くの水田の水口(みずの取入口・ミナクチ)に植えられていた「惣兵衛早生(冷立稲)」の中から、倒伏していない3本の秀れた穂を抜取り、貰い受けて持ちかえった。(この稲は、遺伝学的には自然突然変異の可能性が強いと言われている)
この時、一緒に行った人達と、水田の持ち主は、特別な品種に繋がるなどとは全然気付かなかった。
持ちかえった稲を亀治は、翌年の明治27年から作付けし始める。10・に他の品種と比較するため「大野早生」「月布」「千葉錦」等と共に一株5本づつ3.3・に植えた。この年は肥料を入れすぎたため全部倒伏してしまった。翌年の28年も全部倒伏させてしまい、肥料をセーブしていたにも係わらずだったので、肥料の関係だけではないことに気付いた。 29年には、間断灌水を行い、朝夕は深水にして、昼は浅水にして、水温と地温を上げる工夫をした。が倒伏。
いよいよ30年。この年は春から天候不純で「ウンカ」が発生し、しかも、冷害の年であった。しかし、研究成果が出たのか、倒伏せずに収穫することができた。この年、全国平均が1石1斗8升(約180・)であったのに対し、この品種(当時まだ名前が付いていない)「亀の尾」は2石(約300・)あった。周囲の農民は驚いたことでしょう。倒伏して失敗した年でも、優れた穂だけを抜取るなどの努力をし、その当時小出新田の農民の注目を受けていた。そして、ついに太田頼吉の勧めにより試作品種に「亀の尾」と命名した。時、亀治31歳のことであった。
その間、亀治は優秀な「穂」だけを、ある程度の農民に無料で配っていた、と思われる。この「亀の尾」は、当初は早生品種に分類されていたが、その後品種の出穂期が総じて早くなったため「中生種」として分類された。
性質としては「耐冷性品種」で、米質・食味が良く、少ない肥料でも生育量(長稈)が大きく、分けつも中位で、しかし、耐病性は弱かったが、収量は他の品種に比べると俄然多い。
「亀の尾」の普及
亀の尾の種子が出回り始めた明治30年代は、稲作技術の革新期にあたり、乾田馬耕や堆肥改良、塩水選等が実行に移されていた。このような新しい技術導入の波に乗って新品種としてデビューしたのだった。しかも亀治は、「亀の尾」を他の品種と無料で交換し、種の純粋を守ることと、種の劣化を防ごうとしながら、普及に努めた。(しかし、妻からは何にもならない事をして、などと言われていただろう)
この頃、庄内平野で栽培されていた稲は、晩熟の稲が多く、冷害の危険率が非常に高かったし、施肥方法も、堆肥・大豆粕等を基肥として施す、という栽培方法であった。この少量施肥が亀の尾栽培に幸いした。
こうした条件のもとで亀の尾の出現は、まさに時代の申し子のようだったと思われる。よってまたたく間に県内に広がり、県内で一番多かった大正2年で4,743・もの面積で栽培された。
また、全国にも、朝鮮半島にも広がり、大正14年には栽培面積194,914・にも及び、「神力」「愛国」と共に、日本水稲優良三大品種に数えられた。
このように、亀の尾の特性は時代にマッチし、明治40年より大正6年頃までの主流品種として栽培され、購入肥料である、大豆粕、魚粕等有機肥料中心の施用にあっては、充分増収してきた。しかし、大正7年以降、石灰窒素や硫安などの無機質肥料の施用が盛んになり始めると、亀の尾の特性「耐病性」に弱く、長稈であることが、多肥料栽培時代に入っては「倒伏」しやすく、耐肥性に劣ることから、豊国や早生大野・イ号にその位置を譲ことになった。
しかし、亀の尾は「酒造米」にも敵し、味付け米として根強い需用もあり、その後も一定の面積に栽培が続いている。
今日、経済栽培としての作付けは途絶えたが、近年になって自然指向の波に乗り、亀の尾を原料とした「純米酒」が作られるようになって、再び、小面積ではあるが栽培が行われている。
亀の尾が果たした役割と総括
日本で稲の交配による品種改良が始まったのは、明治32年以降であるが、亀の尾の特性は育種関係者の注目を集めることになった。交配親として盛んに利用され、優れた品種を次々と世に送り出している。その一例を上げれば、今日の優良銘柄米の「ササニシキ」「コシヒカリ」「ひとめぼれ」「あきたこまち」等がある。しかも、今年初めて作付けされた山形県期待の新品種「はえぬき」「どまんなか」のように、今後優良新品種として登場するのは、「亀の尾」抜きにしては語れないまでになっている。
余目の民間育種家の産んだもう一つ有名な品種が「森多早生」であるが、これは、「コシヒカリ」のもう一方の「親」として知られている。この森多早生は、高蛋白質米としての性格がコシヒカリの性格と一致している。
亀治を始めとする民間育種家がこれほど多く本町に存在したことは、やはり、北楯大堰の開さくと、吉田堰開さくがなかったら創出することができなっかった、という事実は拭えない。現在食べている「ごはん」を考えるとき、「阿部亀治」を思い出し、このような「先人」がいたことを忘れてはいけないと思う。
貴重な資料有り難うございました。Kaz Suzuki
少々分かりにくいのですが、写真の中央付近が白っぽくなっています。
これは小鳥が「亀の尾の稲穂」を餌として食べだしたからです。
9月20日過ぎの稲刈りまでにどのくらい残っているやら分かりません。
これも自然界の循環で、小鳥たちは必死に生きようとしているのです。
小鳥に聞いてみたいです「亀の尾の味は如何ですか?美味いですか?」とね。
Kaz Suzuki
多分奈良県では初めてだと思いますが、今年6月19日に阿古三無園で「幻の酒米:亀の尾」(左上写真)を阿古さんを含め男衆5人で手で田植え致しました。 なんと8月27日の約二ヵ月後にはもう直ぐ収穫できるほど実り豊かな稲穂(右上写真)を付けて育っています。
「9月20日過ぎに手刈で収穫し、天干しで乾燥させましょうか。」と阿古さんは言っておられました。
亀の尾とは:http://www.kigawaya.com/sake/tsukuri/kamenoo.html より引用
明治26年に酒田市のとなりの山形県余目町の民間育種家である「阿部亀治翁」が隣町の立川町立谷沢地区で発見し、余目町内の試作圃で育種して世に広めた米です。
ササニシキ、コシヒカリの生みの親にもなっています。 現在のように鑑評会が山田錦一辺倒になる以前は、東北の酒蔵の中には鑑評会出品酒に亀の尾を使ったこともあると聞いています。亀の尾は硬い米で、米を水に浸す浸積のときもなかなか水を吸ってくれないなど、酒造りは独自のノウハウと技術が必要になる米です。それだけに蔵元の腕の差が現れやすい米です。