いったい真実はどこにいってしまったのだろうか。
もしオンボードカメラの映像が意図的に消去されてしまっているのだとしたら組織的に隠蔽しているように思えてしまう。
考えてみれば担当した検事はグランプリに関しては素人であるしF1マシンのことについても素人だったはずである。
ドライビングに関わることでさえもよく理解していないだろう。だからこそ専門家を雇っていたのだろうがその雇われた人間でさえ現役のドライバーではないのだ。
あの日発生したアクシデントがタイヤの問題なのだとしたら事故の数週間前にアイルトン・セナがタンブレロコーナーの路面改修をするように訴えていた事に違和感を感じてしまう。
もしタイヤがパンクしたら大変なことになるということを不安に感じてアイルトン・セナはそこまでの行動になったのだろうか。
ラッツェンバーガーのアクシデントの時、あの動揺の仕方はそれらのトラブルが発生したら大変なことになるという不安であのような動揺をしたのであろうか。
私が知る限りレーシングドライバーというものはそれらの不安材料は既に折り込み済みのはずだ。
もちろん怖い。
それでも何かアクシデントが発生したときに自分ならそれでもコントロールすることができると信じてステアリングを握っている。
またそのために厳しいトレーニングを自己に課しシーズンを戦っているはずなのだ。
それはアイルトン・セナも全く同じはずだ。
だから『タイヤがパンクしたら・・・』とか『ウィングが外れてしまったら・・』などの不安材料でアイルトン・セナがあそこまで動揺するのはどうしても納得することができないのだ。
この1994年には何かがあったのだ。
アイルトン・セナはそれを敏感に感じ取っていたのかも知れない。
なぜならアイルトン・セナというドライバーはスピードの追及に妥協するような性格ではなかった。
いつもいつもベストを尽くす姿勢があったからこそ彼だけに理解できる何かがあったのだろう。
その『何か』に不安を感じ、そして懸念していることを行動に表していたのではないだろうか。
私は今回のこの天才デザイナーの記事を読んであらためて、あのアクシデントに関することを注意深く考察することになったと思う。
そして真実はいったいどこにあるのかを考えていたときに私は今回の記事でタイヤとは違う別の気になる事に気づいた。