お父さんに教わったのは二つだけ。えんぴつの持ち方と、眠れない夜の天かすおにぎり。蒸し暑い空気を飲み込む。空っぽになったお父さんの部屋、縮こまって寝転がっていた。
箱のサラ砂を撫でるのは好きだけどカウンセリングの先生はすごく苦手だった。「男子はちょっかいをかけちゃうんだよ」って先生のお話をうつむきながら聞いてた。そーいう生き物って心の中で繰り返してビー玉を置く。途切れ途切れでいびつな砂の島。これが彩葉ちゃんの気持ちの形だよって先生が言った。ぴかぴかの柔らかい指先が急に気持ち悪くなって、言葉って悪魔みたいだと思った。クーラーの無いカウンセリング室で首筋にじんわり汗をかいていた。
家族全員、ぱっちりした平行の二重まぶた。私だけ除いて。メイク解説のYouTubeがまた「アイシャドウを二重幅に塗る」って言ってて、アホらしくなって、全部の予定を投げ捨てて布団に潜り込んだ。
一度だけ行った家族旅行、青々とした匂いを身体いっぱい吸い込む草原。いろは、って遠くから呼ぶ不器用であったかい声。中学生の頃、いじめっ子が「イロ」っていうのは愛人との間に出来た子の隠語なんよってわざわざ教えてくれた。困ってしまって日焼けの腕の中で教科書を抱えながらにっこり笑う。
あの頃からなんにも変わってない。「自衛すれば」って言われて、その日に買ったナベシャツが冷たく全身に纏わりつく。動悸がするたびに笑顔を浮かべてノーミソを騙す。体育祭のお昼休憩、テントの下で一人でお弁当を食べていたら近寄ってきた上級生。「ジャン負け」という世界で一番嫌いな言葉。しーっ、と当てられた人差し指から生々しい絆創膏の匂い。
友達の家にあがった。人の家で遊ぶのは人生でまだ3回目くらいだった。どきどきしながら飼っているカブトムシのケースを覗き込む。すぐそこにある命が動いていて、すごく怖いのに安心しているような不思議な気持ちだった。二、三言交わしているうちに買い出しに行ってた子たちが戻ってきて、そこからはあんまり喋らなかった。
「俺のこと好きなの」って尋ねられるくらい「俺のこと嫌いですか」って思わせてしまうのが怖かった。関わるほど分からなくなる人との距離。いつも私は人を傷つけてしまうと思う。いつかこの友達のことも知らない間に傷つけてしまうんだと思って、いや、とっくに傷つけているんだとも思って、自分勝手なせつなさに襲われる。
「泣くなら人目に付かないとこにして」って約束を当てつけみたいにずっと守ってる。そっと会話から外れて見上げるしんとした天井と他責思考。さっきまで乗せていたカブトムシを想像して指先が少しだけくすぐったくなる。仕切りの向こうから聞こえる友達の声。うとうとして思い浮かべるのはお父さんと立っていたキッチン。
記憶のお父さんは巨人みたいに大きい。乗るとキュウッと鳴るミニーちゃんの椅子。みんなが起きちゃうやろーって怪物がちっちゃい声で怒っててくすくす笑った。下手っぴなのとその横に並んだ綺麗なおにぎり。いつでも壊れそうなくらいに尊かった夜さり。
命をじっと見つめているような、キッチンのお父さんの瞳はいつもそんな感じだった。カウンセリング中、身体の成長を止めたかったらご飯を食べんかったらいいよって言った強烈な先生を忘れられる一瞬だけの魔法。
彩葉がもっと大きくなったら包丁の持ち方を教える。そう言ってたお父さんは突然いなくなった。深夜に一人でおにぎりを握る。それでもやっぱり眠れなくって縮こまる空っぽの部屋。
みんなが集まる前、カブトムシを指に乗せてぷかぷか眺めていたら友達がふと「箱庭みたいだよね」と言ったことを思い出した。ああ、やからこんなにやさしい気持ち。私は指についた砂をぱらぱら払って顔を上げる。カウンセリング室のじんわりした温度を忘れていく。一緒に霞んでいく視界の端のホワイトボード。昔から人の字をよく見ちゃうのって何でやろうって考えて、ちかちかした頭の中でまた泣きそうになっていた。
そういえばカブトムシっていつ眠るんだろう、最後に見た窓の外、雨は続いてるけど少しだけ明るくなりはじめてる。