1・15
試験の前ってすごく緊張する。それも2週間とか3週間ぐらいまえから。失敗することばかり考えて、試験受ける前にもう心はぼろぼろ。今まではずっとそんな感じだった。
そんな風にすごしているから、当然余裕はなくなってくる。ヒトと会うのも無愛想で、バイトは試験期間の2週間前から休んでいる。周りを見回してもそんなやつはいない。むしろ、そんな時こそバイトなんかをしてるやつの方が成績がいい。僕はそんな彼らがうらやましかった。
どうして、そんなに時間を有効に使えるんだ。なぜ、彼らはプレッシャーにもろともしないんだ。どうすれば、失敗する恐怖を超えられるんだ。そんな問いが四六時中頭の中をよぎった。でも、考えれば考えるほど深みに嵌って、結局前と同じやり方で試験を迎えてた。
そして、今回もそんな感じで試験期間を迎えてる。ただ、今回はそのプレッシャーを真正面から受け止めるのはやめようと思う。というのは、やらなきゃいけないって気持ちがプレッシャーに繋がってるんじゃないかって思うんだ。だから、今回は少し斜めに構えて試験に挑もうって思ってる。
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努力すれば後ろめたさは消えると思っている。過去の後悔、今の自分の不甲斐無さ。さまざまな後ろめたさが、毎日のように襲ってくる。その度に苦しんで、空想の世界に逃げ出す。そんな中学生めいたことを成人した今でも繰り返している。
この前、そのことを友人に話した。友人はその後ろめたさは消えないと言い切った。高校卒業後、彼は2年間悩みながらすごした。その中で、彼はかっこよく生きることをやめた。なさけなく、それでも自分のやりたいことをやるしかないと悟った。
僕は彼の生き方がすごくかっこよく思えた。別に内容に共感したわけじゃない。彼は自分の考えに自信を持っていた。今日考えたことを明日には変えてしまう僕とは大違いだ。僕は彼に憧れと少しの嫉妬を抱いた。
彼の言うとおり、この後ろめたさが消えないとしたら。僕が今までしてきたことはなんだったんだろう。過去の失敗を取り戻すためにがんばってきた。でも、それはどうしようもないことだとしたら。すこし残念だけど、でもなんとなく肩の荷が下りるような気がする。
生活や考え方が固まると、それにこだわってしまいがち。でも、こだわりは新しいものの見方を拒む。そんな単純なことは頭ではわかってたつもりだったんだ。けれど、3流の小説みたいに僕も過ちを犯してた。
2007年
僕の先生は人生は選択だと言った。僕も自分の経験からそれに同感している。中学受験、高校受験、大学受験、と今まで三回の選択の機会があった。その度に僕は選択することの難しさに直面していた。たとえば、2つの選択肢があって、そのうちのひとつがもうひとつよりもよいと「確実に」わかっていれば、選択することは簡単だ。でも、サイモンのいう「限定された合理性」という制約がある僕らは確実に未来を予測することなんてできない。だから、僕はその合理性の中で二つの選択肢を秤にかけて、満足的意思決定を行ってきた。
前回まではそれでよかった。というよりも、そのプロセスを経た意思決定に満足していた。けれど、今度は状況が少し異なっている。まず、今回の選択は自分の人生の大半をすごす組織を選択することであること。次に、今まで自分の自分価値観を形成していた家族や友人等の組織文化に違和感を感じていること。そして、最後に、手痛い失敗のおかげで自分で選択することの重要性を痛感したことだ。制約された合理性からは逃れることはできない。でも、今回は世間的な価値を基準にした満足的意思決定ではなくて、自分が納得できる満足的意思決定を行いたいと思っている。
しかし、そのように決意を表明しても、結果的に前と同じことを繰り返すかもしれない。もしそうなったのであれば、僕はその原因をつきとめて、それを「カイゼン」したいと思っている。このブログは現在の自分の考えや想いをつづることで、将来の反省材料になればいいと思っている。