先日の新聞を読んでいると秋葉原の無差別殺人の公判の記事が出ていて、被告が初めて法廷で供述した様子が記事になっていた。
被告はその法廷で殺人を犯したその動機を「ブログを管理しているサイトの管理人」や「ブログに中傷のコメントを書いた人々」のせいにしていたそうだ。
最近の殺人等の事件を見ているといわゆる「殺人の衝動を生む動機と殺人という実際の行為」が全く結びつかないことが多いような気がする。
なぜ「サイトの管理人の管理が杜撰だと人を殺すのか」「ブログに中傷記事が載ると全く関係の無い人々を殺そうとするのか」、動機と行為に脈絡を全く感じず、不条理なことが多すぎる気がする。
そして対象者を危害を加えられた当事者ではなく、なぜ関連の無い人々とするのか。
結局「自分の気持ちを満足させる」ことが最優先され、それが満たされるのであれば対象者が誰だろうとどのような手段を選ぼうとそんなことは二の次でどうでもいいのだろう。
無差別殺人を犯す者や先だってブログにも書いた「虐待をする親」の今の20代の世代はどのような教育を受けていたのだろうと今更ながら思う。
今の20代の世代はもしかするとゆとり教育で育った者かもしれない。
ゆとり教育そのものについて私は懐疑的なほうであるが、詰め込み勉強を否定することで一つ大事なことをおざなりにしてしまったのではないだろうか。
それは「道徳」の勉強である。
なぜ隣人を大事にしなければいけないのか、嘘を付くことはなぜいけないのか、この世の中は自分の思い通りになることばかりだけではなく、なぜ「我慢」することを覚えなければいけないのか、なぜ親を敬うことが大切なのか、なぜ生まれてくる子供を大切に扱わなければいけないのか・・・・
私が小・中学校で当たり前のように教わったそんな「道徳」について今の子たちは本当に学校で学んでいるのだろうか。またそんな道徳教育の時間がきちんと確保されているのだろうか。
今文部科学省では「英語」の授業を小学校から取り入れようとする動きがあるそうだ。
グローバル化を鑑みれば低年齢の時から英語を学ぶことも必要だろう。
しかしその前にもっと学ばないといけないことがあるはず。
低年齢の時だからこそ学ばないといけないことがあるはず。
今引き起こされている様々な事件の動機は全てその起こした者の中にある。
これからそんな犯罪を起こさないようにするために必要なのはこれからの世代にきちんと当たり前と思われる「道徳」を学校教育の一つとしてもう一度確立し、その者の中に「人間が生きて生活する上で正しい精神」を大人が教育者が植え付け教えてあげることだと思う。
またそれを教えてあげれるのは「若い世代の先生」よりも、人生の経験を数多く踏み、道徳教育をきちんと受けている「年齢と経験を重ねた世代の先生」のほういいのかもしれない。
逆に大学の教育・授業はいわゆる「最先端」の勉強・授業となるので言葉は悪いがご年配の先生よりも新しいことを学び、吸収しやすい「若い世代の先生」のほうが適任だろう。
教育者も適材適所。
この世から「いじめ・虐待」が無くなること切に願い、すこしでも何かできないか、私なりに考え行動をしていきたいと思います。