「おつかれまです」
店員数人の声が、油が染みついてぽつぽつと小さい水玉模様のように黒く変色している壁や天井に反響し、店を出る僕を送り出してくれた。冷房が痛々しく効いていた店内から出た僕は、そのあまりの気温差に激しく反応し、毛穴ひとつひとつから今まで固まっていた液体を少しずつ溶かしていった。やがてその液体は僕の体を包みこみ、僕はその液体となった。人間の体の約七十%は液体でできているという事実を唯一感じられるこの季節を僕は毎年好ましく感じていた。
僕が大学を卒業してから七年が経つ。僕は、後一カ月で三十年間生きた事になるのだ。小さい頃から感じていた想像上の三十歳、そして一カ月後に迎える現実的な三十歳。世の人たち、主に周りにいる友人たちは、想像上の方が大人だったと声をそろえて言っていた。きっと、いつの時代でも変わらないのだとは思うけれど、いつの時代も大部分の人が想像を超える事ができていないと感じるのは少し悲しかった。
そういう僕は想像上と現実が全く変わっていないと感じていた。たぶん、幼い時から夢を見なかったのだろう、よく言えば現実的だし、悪く言えばつまらない子供だった。
僕は、聖蹟桜ヶ丘にある小さな小さな個人経営の居酒屋で働いている。昭和の時にあった模範的となっていた形を、そのまま残しているような店構えで、最近の「良き時代昭和を振り返る」といった時代の流れに便乗していた。もっとも、店時代も昭和から今に至るまで本当に続いているので、決して偽物というわけでもなかった。しかし、僕は正社員と言うわけではなく、アルバイトとして雇われた形を取っていた。それが僕にとって昔も今も最も自然な形だった。
「いらっしゃい、お客様一名様で?」.
僕が、店に入るとレジでお金を数えていた店員が顔を上げて聞いた。いえ、友人が先に来ていると思います、と僕は言った。
僕は、新橋駅から徒歩五分ほどの所にある焼き鳥屋にいた。焼き鳥屋という印象を覆す店構えで店の中心には回転寿司にあるような大きな水槽があり、そこでは様々な種類の熱帯魚が各々の美貌を薄暗い店内でひけらかしているように泳いでいた。店員は皆、背広を着て髪を固めており、どこかのお洒落な酒場で見る光景と全く変わらなかった。大学の友人たちは右奥のちょうど十人ほど座れるテーブルで大人の雰囲気を出しつつも、誰もが会社で見せる顔とは違う顔を出していた。
「おお、やっと来たか」
一番手前にいた友人が言った。それに合わせる形で他の友人たちも同じ内容の事を少しずつ違う言い回しをして言った。僕は、一番手前の空いている椅子に座った。全部で十席ほどあった空席は、僕が座ると残り一席になった。あと一人誰か来るのかと隣の一番先に話しかけてきた友人に聞いたが、お前が最後だよと友人たちが声をそろえて言った。久々に集まった大学時代の友人たちと思い出話をつまみに酒がすすみ、呑み終える頃には皆顔が動物のようになっていた。作られた顔が本物で、作られていない顔が偽物の世の中で、ほんのひと時だけ入れ替わるその瞬間を僕はいつも通り眺めていた。
呑み会が終わり、僕は新橋の駅前の縁石に腰掛けた。持っていた煙草に火をつけ、煙を微かに吸い込んだ。そして思いっきり細く、長く空に向かって吐きだした。その煙は一つの細い細い道のようで、僕の体の芯をそのまま表し、まるで空に繋がっているかのように思えた。
さきほどの呑み会が終わって、駅に集まっていた時に友人の一人が酔っ払いながら言った。
「お前だけ働かなくていいから楽だよな。全く、羨ましいよ」
その言葉を聞いて僕はなんだかとても悲しくなった。皆それぞれが己の進むと決めた方向に向かって進んでいる。友人たちは社会人、僕は短気労働者。住んでいる、過ごしている環境は確かに違うけれどお互いが同じだけの時間を、進むべき道の糧として過ごしているという意味では同じはずだった。
僕はもう一度持っていた煙草の煙に視線を移した。その煙はさきほどとは違いゆらゆらと揺れていた。その姿はまるで今の僕自身、いや、今の社会そのものを表しているかのように僕には思えた。
・・・・・続く




