共同親権になると「連れ去り」と「虐待」が防げるらしい。
「連れ去り」とすぐ問題視するが、子どもの意志を考えているにだろうか?
子どもが自分と会うことを拒否するなら自分の欲望は引っ込めた方がよいよ。
もしも本当は会いたいと考えている子どもなら、いずれ会いに来る。
なんなら、十五歳になったときに別居親を親権者として選ぶよ。
「親権があれば子育てに関われる」と言うという人は、離婚前にもさぞかしきちんと子どもに向き合って来たのだろうね?子育てして来たと胸を張って言えるのだろうね?
きちんとした「親」ならば親権があろうとなかろうと子どもとの交流は続いているだろうし、子ども自身だって大切なことは相談するだろう。同居の親には言えないことも、たまにしか会えない別居親だからこそ言えることもある。
子どもと向き合ってきていて子どもと健全な関係を築き上げてきたのであれば、共同親権であろうとなかろうと気にしないような気がする。
そう、「子どもと会えない」というのはたいていの場合(全てとは言わないが)、まあ「そういうこと」だ。
「親権をくれ」と声高に叫ぶ人、子どもの友だち、担任の先生、好きな本やアニメや食べもの、塾や習いごとの曜日やお月謝、行きたい学校、将来の夢、……もちろん知っているのだよね?
苦手な教科や喧嘩した友だちや嫌いな食べものも、当然承知しているよね?
元夫はひとつも言えないどころか子どもの学年(クラスではない。学年である)さえ覚えていなかったけれどね。
子育てというのは、何気ない毎日の暮らしなのだよ。父母どちらもの同意が必要な例として挙げられている「幼稚園や学校の選択」「進学か就職かの選択」「転居先の決定」「生命に関わる医療行為」などというようなものではない。
日常の生活において子どもになんの利益も与えていない人間が、重大事項だからと急にしゃしゃり出て来ていったいなんになるというのだろう?
そもそも親権という言葉が悪い。
「親権=親としての権利」という勘違いを生むからだ。
親権というのは監護及び教育をする権利であると同時に義務を負うということなのに。
子どもを自分とは別人格と認められず、自分支配下に置きたい人間には魅惑的すぎる表現だろう。
いっそ「養育義務」とでもすればいいのに。
そうなったら、おそらく必要ないと言う別居親が出て来るのではないかしら。